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2014年5月1日木曜日

咳の病と、子どもの病気に効く神様

少し前に、熊本県で鳥インフル発生とニュースになった。

日本国内での鳥インフル確認は、確か東日本大震災があった年以来だと思う。
鳥インフルは言葉通り鳥が感染するインフルエンザであり、人間が感染するインフルエンザとは異なる。しかし、マレに人にも感染することがあるらしく、というか人間の感染するインフルエンザは鳥や豚など動物のインフルエンザが変異したものであるため、鳥のインフルエンザが発生するたびに警戒されることになる。ひとたび人に感染するウイルスに変異してしまえば、それは人間にとって未知のウイルス=新型インフルエンザとなる。抗体のない人類は感染拡大の脅威に直面する。

鳥のインフルエンザは、強毒型という症状の重いものから軽いものまで幾つかの種類がある。症状の軽いものは人間が感染しても通常のインフルと変わらないが、症状の重いものだと致死率6割以上というものまである。

鳥から人への感染がマレだとはいえ、人とウイルスの接触回数が増えるということは変異の機会が増えるということだから、厳重な警戒が必要となる。

私は鶏肉と玉子料理が大好きなので、このような騒動は困る。十分な加熱処理をすれば問題ないはずで、私も相変わらず鳥料理を食しているが、馴染みの飲食店に影響が出ないかと心配だ。


鳥インフルエンザとは別に、今、中東の方で懸念されているのはMERSコロナウイルスだ。致死率30%とも言われている。
1~2年前からサウジアラビア国内で警戒されいたこの新種のウイルスは、10年ほど前に中国を中心に世界中で猛威を見せたSARS(サーズ)と類似したウイルスだ。

世界中で、今もっとも感染拡大が心配されている感染症の1つだと思う。


インフルエンザにしろマーズコロナウイルスにしろ、どちらも高熱や呼吸器の炎症、肺炎のような症状が出る。

咳の病だ。

毎年流行する季節性のインフルエンザとは異なり、場合によっては致死率がふた桁レベルに達し、人々を襲う。
これらの新種のウイルスは、人の流れとともに広がる。
第一次世界大戦の時に、戦争による人の流れとともに世界中に拡散したスペイン風邪は、感染者6億人、死者は5000万人に達し、戦争以上の死者を出した。


グローバル化だとか言っている現代では、一度新しいウイルスが誕生したら、瞬く間に世界中に広がるだろう。

無論、このような感染症の流行は現代だけに限らず、過去にも何度もあったはずだ。


咳のカミさま、というのがある。

このカミさまは決まって私たちに身近な存在であり、むかしからアチコチにいらっしゃった。
やはり、こういった感染性の病の流行は、今と比べ物にならないくらいの切実なる恐怖だったんだろう。

そういった病の魔の手から助けてくれるカミさまだ。


東京都内にも、有名な咳のカミさまがいる。

例えば、墨田区の弘福寺というお寺の、爺婆尊。爺さんと婆さんの2体の石像だ。頼むと咳の病に効くという。

もともとは大名の屋敷にあったもので、百日咳で難儀する児童の親は、門番に頼んで拝みに入れてもらっていたという。
願掛けの仕方も変わっていて、こんな感じだ。

まず、必要なのは豆や霰餅の炒ったもの。これを煎じ茶とともに備える。
そして、始めに婆様に咳を治してくださいと頼み、次に爺様に「おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んできましたが、どうも婆どのの手際では覚束無い。何分御前様にもよろしく願いまする」
そう頼んで帰ると、殊更よく全快するという。


江戸の頃には、なぜだか爺婆は仲が悪いとされていて、並べると必ず片方が倒されるということから、両者は離れて置かれていた。しかし今ではそんなことはなく、仲良く並んでいる。今では咳に効くという生姜の飴も売られているので、そう高くもないものなので試してみるのもいいかもしれない。

こういった咳に効くカミさまは、なぜだか「咳のおば様」だとか「しわぶき婆」、「姥神」だとか呼ばれて、各地にある。

例えば、私の住む川口市には私が把握しているだけで、3箇所に「咳のおば様」がいらっしゃる。西新井宿の姥神様、芝のしゃびき地蔵、慈林のばん神さま。それぞれ呼び名は異なるが、いずれも咳の病に効くという。私の知るだけで3箇所なのだから、実際にはもっとあるのかもしれない。で、1つの市内でこれだけあるのだから、全国各地にあるに違いない。


ところで、なぜこのカミさまは咳のカミさまとなったのか。
大抵の場合、このカミさまは婆さんである。

婆さんのカミさまが咳に効くカミさまへと至った訳としては、こんなことが言われている。

「咳の病を治してくれる神「咳婆(シャビキサマ)」は、もともと関の姥神であった。だからセキババは村の辻や山の峠、橋畔などに祀られ境を守る神であった。その関が咳に通じるところから、人の咳の病ばかり祈るようになった。」


関所の関ということで、村境などに祀られ、塞神(さえのかみ=道祖神)の「さえ」=塞(ふさ)ぐも同じではないかと言われている。セキという音が、咳に通じるという日本によくあるダジャレのようなパターンだが、こうした信仰が良くない風邪の病などが流行った時から広がったのではないかと思う。

私などは単に塞や関という意味以外に、石神の石の意もあったのではないかと思うのだが、しかし、単に音が似ているというだけでそう信仰され始めたのではなく、もともと姥神にそう信仰される下地があったのではないかと思われる。


では、姥神とは何か。

姥神と呼ばれるカミさまは、よく井の上、池の岸、泉のほとりなどに祀られていることが多い。咳に効く、とされない場合の「姥神様」でも、水と関連する場所などに多く存在している。例えば有名どころであれば浅草の近く。かつて姥が淵という池があり、悲しくも残酷な説話が残されている。石枕、一ツ家の伝説と呼ばれる話だ。

お話は浅草寺草創の頃のこと。浅茅ケ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。道行く旅人に一夜の宿をかしては夜な夜な寝静まりに旅人の首を落す。そして身ぐるみはぎ取ってしまう。殺された人999人。これをみた浅草観音は若衆に変身して老女の一軒家に泊る。老女は例によって旅人をしとめるがあけてみてびっくり。殺したのは旅人にあらずしてわが娘なり、老女は大いになげき苦しんだ。千人目のお客で彼女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。この池を後世、姥ケ池というようになった。(台東区)


他にも各地に姥神もしくは類似する話が残っていて、「咳のおば様」の例として前述した西新井宿の姥神様も、もとは姥が池と呼ばれる池に由来する説話を持っている。いずれも水辺が近くにあり、悲しい話がついてまわる。

この姥神とは一体なんだろう?

これを考える上で参考になるのは、各地に伝わる大師講の説話である。
お大師様、つまり弘法大師(空海)が各地をまわり、杖でつついたりして水が湧き出るという類の伝説だが、「きっと近くの村にこういう言伝えがあって、それにはいつでも女が出てきます。その女がほんとうは関の姥様であったのであります」(柳田国男)という。

どういうことか。
端折って説明すると、「だいし様」と読んでいたのを文字を知る人たちが弘法大師と思うようになった。もとは「だいし」に漢字をあてるとしたら「大子」と書くのが正しく、これは「おおご」と言って、大きな子。すなわち長男という意味であった。この大子は児の神(神の子)であり、姥神は御母、御叔母といったような大子と親しみのある関係であった。

大子はその字や音から、時代とともに聖徳太子や弘法大師などへと移り、姥神も「うば」=女のことであったものを、老女のように考え出し、仏教の普及とともに奪衣婆、山姥などのイメージがついていった。しかし、双方とも決して新しい神ではなく、相当に古いカミなのではないか・・・と言われている。

確かに、姥神(咳のおば様)の多くは単に咳の病に効くだけでなく、子供の病に効くという話がセットになっている。

姥神とは子どもを愛するカミなのだ。


ところで、何故「うば」ガミと呼ぶのか。
これは私の想像だが、もともとは「産神(ウブガミ)」から来たのではないか。
産神とは出産の神とされ、箒神をそう呼んだり、また産土神(うぶすなかみ・・・土地の神として祀られている)と関連があるとされている。

この「うぶ(おぶ)」とは「たましい」と同じ意味だと思われる。

かつて海辺の村ではお産のたびに海近くに産(うぶ)小屋(産屋)を立て、その下には砂を敷いた。この砂をウブスナと言うのではないかとの話もある。

ともかく、姥神が水辺にいること、子の神との関連があり、更には子どもを愛する神であること。「うぶ」と「うば」の音の近さなどから考え、そこから姥神となってのではないか、と思える。


子どもな7つまでは神のうちと言われ、昔は生き延びるのも大変だった。タチの悪い流行病などが出ると、それを乗り切るのも運次第だったろうと思う。流行病はいつも境界の向こう側、他所の地域から入り込んでくる。だからこそ、その境界を「関の姥神様」に守ってもらう必要もあったのだろう。

姥神様はとても身近な場所にひっそりといて、そしていつでも子ども達を見守ってくれている。



今また鳥インフルエンザやMERSコロナウイルスという、油断ならない病気が影をチラつかせている。
神頼みとともに、最新の予防医療の力と、身近な感染症予防の知識で「いざ」を乗り切ろうではないか。


人体に危ない細菌・ウイルス 食中毒・院内感染・感染症の話 (PHPサイエンス・ワールド新書)

マスメディアが報じない 新型インフルエンザの真実 (中公新書ラクレ)

【参考】
日本の伝説 (新潮文庫 や 15-2)
日本の神々 (岩波新書)
埼玉県伝説集成―分類と解説 (1974年)

2014年4月28日月曜日

こけしの由来と、名前の意味

少し前に、(別の)ブログで「聖(日知り)とてるてる坊主の末路」という記事を書いた。

てるてる坊主は雨ざらしにされ、人々の願いを一身に背負い、雨が止まねば首をチョン切られてしまう悲しい存在。
見た目は可愛いてるてる坊主だけれど、見方によっては違った側面が見えてくる。

私たちの日常の、割と近くに存在しながら、しかしよくよく考えてみると何だか理不尽な、あるいはゾッとするような習わしが割とある。

そしてそれらは何故か、いつも子どもたちの近くにある。

例えば、「とおりゃんせ」。
例えば、「かごめかごめ」。

たとえば、「こけし」。



「こけし」は子供顔の頭部と、円柱の胴体で構成された木の人形で、東北地方に多い。昔は一家に1つくらいはあったのではないか。日本の代表的な人形といっていいと思う。

しかし、よくよく考えてみれば「こけし」のカタチは手足がなく非常に特徴的だし、そもそも何故「こけし」と呼ぶのか?

この名称は、考えてみれば不思議で、一体どのように付けられたのか。

「こ」と「け」と「し」。

由来は何か?


調べてみると、<「こけし」とは、「子消し」である>という説が出てきた。
どういうことか?

つまり口減らしや堕胎によって亡くなってしまった子供の供養としての「子化身」・・・こけしである・・・・・・、という説である。

何とも恐ろしい話だ。
姥捨て山とは反対で、それの子供版か・・・。

子供を消すから、「子消し(こけし)」。
消された子供を供養するために、子の化身として木の人形である「子化身(こけし)」をつくる。


いかにもありそうな話だ。


しかし・・・。


「こけし」は「子消し」である。こう書くと字面から言っても最もな理由のように感じるが、実はこの説には根拠がないという。ウィキペディアによると、この説の提唱者は民俗学に通じているわけでもなく、この説が提唱される以前には、それを裏付ける文献等もないという。

そもそも「こけし」という名称も、実はある狭い地域で命名されていたものであり、同じ「こけし人形」でも、地域によっては「きぼこ」「こげし」「でく」など様々な名称で呼ばれていたという。そのうち「こけし」という名称が代表的なものとして広まった。

口減らしの供養のために作られた「子消し」の存在の、可能性自体は否定しない。しかし、「子消し」が「こけし」そのものの由来であるとするのは無さそうだ。

では、なぜ「子消し」説が流通したかというと、「こけし」という名称から、さもありそうな字面だから・・・ではないだろうか?

こけし → 子消し

語呂があっているというか、字面があっているというか、何となく納得してしまう。

昔のコミュニケーションの主体は話言葉だったのだけど、文字が流通するようになると、文字の影響を受けて本来の意味が変わってきてしまう、というのはよくあることだ。音の響きに漢字を当てられると、その漢字の持つ意味の影響を受けるようになる。


地名や人の名前、物の名称などもそうで、大抵の場合、綺麗で良い印象の文字を当てようとする。

例えば東京の某所に「鶴前橋」という橋があるのだけれど、今度新しく橋をかけ変えることになり、その名称が「鶴舞橋」となるらしい。

このように徐々に名称が変わってしまったり、その文字から新しい何かがイメージされてしまったり、似た名称から影響を受けたり、という事が、実は結構あるのではないか。

特に口承で伝わってきたもの、たとえば昔話や地名には、そのような影響を受けるモノが多いのではないかと感じる。


特に地名。
地名にはマイナス要素(例えば湿地や災害由来など)が含まれている場合があるが、そんな意味が含まれていると、不動産売買に支障が出る。ゆえに、良いイメージのものに改名されたりすることが結構多い。何とかの園とか、何とかヶ丘とかはほとんどそんな裏事情があるのではないか?新駅が作られる時の駅名も同様である。



美しい名称をつけて、それの価値をあげようという目論見があると邪推する。


それとは反対に、名前の意味が忘れられて、それ自体の存在も消えてしまう場合がある。


例えば、私の住む川口市に道合(みちあい)という場所がある。
ここの、とある場所にはかつて庄陣場という名前の清らかな池があったそうで、この池は近くの農民たちからとても大切にされていたそうだ。「この池を粗末にすると“たたり”がある」とされていた。そして、この池は地元に伝わる説話の舞台にもなっていた。

しかし、「庄陣場」とは一体何か?
思うに、もともとは「精進場」だったのではないか、と推測する。
精進場とは禊を行う場所であり、同じく精進場と呼ばれる池は全国にいくつかあるようだ。

禊をするということは、宗教的な行為をするだけの聖域のような場所が近くにあったはずで、それゆえに「この池を粗末にすると“たたり”がある」とされていたのではないかと思うのだが、「庄陣場」では意味が通らない。本来の伝承では近くに塚などもあったようだが、池も塚も、現在では消滅してしまっている。同時に、そこに付随していた説話も消えかけている。恐らく近い将来、忘れ去られるだろう。


間違って意味が付帯されて広がるものもあれば、意図的に意味をすり替えようという場合もある、一方で、意味が失われて存在自体が忘れ去られていくものもある。
名前とは不思議だ。


あなたが住んでいる地元の、目立たない地名なんかに気をつけて欲しい。


バス停の名前、橋の名称、小さな神社の名前。
誰にも気づかれていないが、もしかしたら貴重な物語を宿しているかもしれない。
気づかれるのを待っているのかもしれない。



地名は災害を警告する ~由来を知り わが身を守る (tanQブックス)



誰かに教えたくなる「社名」の由来 (講談社+α文庫)



こけし てづくり手帖 (レディブティックシリーズno.3722)



2014年2月21日金曜日

アチコチにある石の神様(お地蔵さん含む)は、実は奥が深そうという話。

今回は結構身近にあるのだが、なかなか気付かない道端の神さまについての話題で。


つい先日、東京は亀戸にある「石井神社」という神社に行ってきた。
ここの神社は結構古いらしく、もとは石神社といい、かつては御神体に石棒を祀っていたという。


ここは「おしゃもじ稲荷」として有名で、神社にはしゃもじが置いてある。咳の病にかかったら、この“おしゃもじ”を借りて家で拝み、治ったら新しい“しゃもじ”を添えてお返しするという風習がある。

“しゃもじ”関連の神社というのは全国に結構あって、以前、座間の方にある「おしゃもじ社」に行ったことがある。

“しゃもじ”に通じるのはご飯。なので、だから稲荷神社に多いのかなぁと思っている。

なのだが、“しゃもじ”にまつわる神社は、元々のところを見ると、石の神、つまり石神と関連している所が多い。冒頭の石井神社もそうで、先程も書いたけど、元は石の棒を祀っていたという。石の棒を祀るというケースは各地に多くあり、その信仰は縄文時代からのものと言われている。(シャグジ、ミシャグジ神、石神、石神井などで検索すればたくさん出てくると思う)


ところで、石の棒と言われると、どんな形を想像するだろうか?



まぁ、大体は男の“あの形”である。

石に限らないが、藁だったり木だったり、色々な素材で“あの形”(以下、面倒なので「きのこ」という)は表現される。ヤラシイ意味ではなく、生殖や出産というのはそれだけ神がかり的であり、大切なものだったのだろう。蛇や龍を藁で編んでいるケースも多々見かけるが、一部は「きのこ」に通じるんじゃないかと密かに勘ぐっている。



石の棒。
そして、その形状は「きのこ」だったとする。


であれば、ほら、“おしゃもじ”に通じるのではないか。

カタチ的に。

カンだけど、大体あっているのではないかと。


“しゃもじ”に関連する社・祠が、石井神社もそううだが、同時に咳に効くという伝承が伝わっているのが多いのは、やっぱり石→セキ→咳という変遷があったのではないかと思う。

石のカミ様だから、咳に効く、と。

実は咳の神様というのは各地の道端にたくさんある。
例えば私の住んでいる川口市にも、咳に効くという神様が、私の知る範囲でおよそ市内に3つはある。姥神様とかしゃぶき様とか名称は色々だが、ようするにお婆さんのカミさまで、咳の病気に効く。で、子供好きであることが多い。

都内にも墨田区の寺に有名な姥神様がいるし、埼玉の川越や浦和にもいたりする。多分、探せばもっとたくさんいる。(この姥神様については別途書きたいと思う)

この姥神様だが、夫婦神であるケースが多く、姥神様と並んで爺神様もあったりする。

つまり、どういう事か。

先ほどの石の棒に通じるのではないかー・・・と思うのである。

つまり、生殖や繁殖(出産)に繋がる、石の神である。

だから、姥神様は石で作られていることが多く、セキ(咳)の神でもある。ついでに言うと、セキから関所の関につながり、せき止める→塞き止める→塞の神として、村や辻などの境界に置かれることが多い。

道端の神さまといえばお地蔵さんだが、考えてみればホラ、お地蔵さんの形って、「きのこ」と似ているのではないか?だからこそ、お地蔵さんは「子供の守り神」なのではないか。石の棒がお地蔵さんに入れ替わったケースというのは、随分あったんじゃないかと推測する。


それにしても石の神というのは、古い古い時代の神であり、非常に奥が深い。


ところで、私の住む川口市には、石神(いしがみ)という地名がある。
地名由来は不明で、石の神を祀る社も見当たらない。しかし、この石神という地域は貝塚や遺跡なども多く、はるか縄文の頃から人々が暮らしていた歴史の古い場所である。

で、だ。
先ほど例として出した川口市内の姥神様の1つは、その石神との堺にある。
そして、冒頭の亀戸・石井神社だが、もとは石神社が石井という名称に変わったらしく、その変遷経緯(単に語尾が伸びたのか、それともシャグジが訛ったのか)はわからないが、川口の石神のあたりには、石井性が多いという点で、非常に興味深く思った次第である。


全国の石神、石神井という地名に住んでいる皆さん、どうでしょうか?

参考
・東京村

2014年2月19日水曜日

近所の古墳を探せ!

先祖を30世代遡れば、その数は1億人を優に超えると言われている。

今を生きる私たちはあまり意識しないが、私たちが今生活しているこの土地には、かつて誰かが生活していた。そして、私たちが日常何気なく歩いている何の変哲もない町内に、ひっそりと、古代の人々の痕跡が、今だに残っていることがある。

例えば、古墳。



古墳ってのは、意外に多い。
奈良とか京都とか、古代の歴史の中心舞台だけでなく、それこそ青森にだって、東京23区内にだってある。

現存しているものもあれば、とっくの昔に壊されて跡形もないケースも多い。

で、だ。

私の住む埼玉県川口市にも、古墳はもちろんある(あった)。

有名なのは高稲荷古墳という古墳で、全長75mもあったとされるが、現在では残されていない。
この高稲荷古墳は、その場所・形状などの情報が残っているので、まだいい方だと思う。

やっかいなのは、何の情報も残っていない古墳。
ただ、「この辺りに古墳があったらしい」という話しか伝わっていないケースだ。

私たちは知らず知らずのうちに、古代の権力者(もしかしたら呪術的要素が組み込まれていたり、或いはカミに近い存在だったかもしれない!)の眠るその上で、尻を掻いてテレビを見たり、脱糞したりしているかもしれない。

ゾッとするやら勿体無いやら。

で。

以下は、私の住む地元地域における、今は残されていない古墳を探す記録である。結論を先に言うと、ゴールにはまったくたどり着けていない。悪戦苦闘の記録である。


私が住んでいるのは埼玉県の川口市で、東京都の北区や足立区と接している。この市内、神根地区という場所に、今は残されていないが2つの古墳があったらしい。


1つは西新井宿という場所。もう1つは道合という場所。どちらも昔は村であり、現在は大字としての地名になっている。

私がこの2つの古墳について知ったのは、ちょうど地域の歴史に興味を持ち始めた頃だった。

市内の歴史について情報を得ようと、図書館で「川口歴史読本」という本を読んだ。といっても、熟読はせずに、目次を見て気になったところをつまみ食いする程度だ。

と、そこに市内の古墳の所在地が書かれていた。

「川口市域に現存している古墳、もしくは最近まで存在した古墳や、あるいは発見の古墳遺物によって、かつて存在したことが認められたものに、次の六ヶ所がある(埼玉県史より摘録)
・新郷地区・ 峯・瓢箪塚 前方後円墳
   ・ 同   赤井  円墳
   ・ 同   東本郷・見沼台 前方後円墳・直刀・曲玉・土師
   ・神根地区 道合 前方後円墳・直刀・曲玉・土師
   ・ 同   西新井宿 前方後円墳・直刀・曲玉・土師
   ・芝地区 芝・辻 鉄鏃・木盂・平盌


神根地区はまさに私の住んでいた場所なのだが、しかし古墳があったなんて聞いたこともなかったので、驚いた。

川口市史などを読んでみても、同じように古墳があったと書かれている。しかし、古墳があったという情報以外、ほとんど情報がない。

で、情報源とされていた埼玉県史を読んでようと県史を手にとってみたが・・・なんと、何も書かれていない。


どういうことだ?
本当に古墳なんてあったのか??


気になって仕方なかったので、図書館の司書さんや市の人やら方々で聞いて、ようやく目処がついた。

どうやら県史は県史でも旧県史(確か4~50年くらい前に出版されている)の方に書かれているという。

で、浦和にある文書館にまで行き、ようやく旧県史にたどり着けたのだった。


・・・が、旧県史に書かれていることは、市史などに書かれていることと大差なかった。というか、ほぼ同じ内容だった。

その後も悪戦苦闘が続き、ようやく行き着いたのが「古墳横穴 及同時代遺物発見 地名表」という資料で、明治33年に発行されたもの。編纂・発行は「東京帝國大學」だ。

それによると、
・道合 古墳 報告者・蒔田鎗次郎
・西新井宿 古墳 登載書・地学協會雑誌報
※こちらで見られます。

とある。

道合の方は蒔田さんという方の報告で、西新井宿の方は専門誌??


で、私が辿れたのはここまでだった。

古墳について専門知識もなく、これ以上調べを進めるのは困難だ。
誰か調べられる人がいたら、ぜひ教えて欲しい。


そして、私は私なりに、アプローチ方法を変えることにした。
決してゴールにはたどり着けないかもしれないけれど、一歩近づく努力。
私なりの方法。説話や地形からアプローチするという方法を選んだ。

地域に残っている説話・伝承、さらには地形。そして、現在は場所についてわからなくなっているということから、その場所は開発されてしまった(だろう)痕跡のある地域、ということで目星をつける。


西新井宿・道合、それぞれについて、次のように推測し、いくつかの候補地をあげて検討する。


◆◇【西新井宿の古墳】◇◆

候補地

① 笹根の仙元祠跡

以前、神根地区の昔の地図を読んでいて、気がついたことがある。
浅間社の“浅間”について、書かれ方が2通りあるのだ。1つは、“浅間”。もう1つは、“仙元”。

で、この違いが気になったので、浅間神社の方に問い合せてみた(なんと迷惑な・・・)ところ、次のような回答をいただいた。


「仙元」とは、主に富士講が使用した呼称のようです。よって古い文献には「浅間」「仙元」2つの名称が出ているものと思われます。


必ずではないが、古墳はある意味での聖地であり、埋葬場所との認識もあったと思われ、且つ山のような形なので、後に祠が立てられることが多い。

埼玉の有名な古墳「稲荷山古墳」もそうだし、先に上げた川口市内の高稲荷も、稲荷とつくのはその辺りが関係しているのだろう。
また、形状から富士山信仰と結びついて、浅間社とされるケースも多いだろうことは推測できる。現に鳩ヶ谷の仙元社も、あそこは古墳跡だ。

ということで、明治の地図をもとに西新井宿の「仙元祠」を探してみると、笹根という場所(西新井宿内の小字)に仙元祠があったことがわかった。

現在は社はなく、跡のみとなっている。

しかし形状は綺麗な山のような形で、これは古墳を想像させる。

開発という点では、近くには大きな鉄塔があり、、また、目の前には1946年に設立された川口市立グリーンセンター(旧指導農場)という巨大な植物園がある。


② 駒が塚

西新井宿には、新編武蔵風土記稿という江戸時代の地誌や、口承などの説話で、「稚児桜」という話が残されている。

昔、稚児が落馬して、命を落とした。そのとき、馬を繋いだ場所が駒ヶ塚となった。稚児を悼んで植えられた桜が、稚児桜。乳母が悲しみ、身を投げたのが姥ガ池。

1800年代前半の時点で、駒ヶ塚は形ばかりの小さな塚となり、池もほとんど残っていない状況になっていた。
で、塚といえば盛土をされた場所を指す。であれば、古墳として可能性はあると思った。

昔の絵図などを見ると、駒ヶ塚は西新井宿村に入ってすぐの場所、反対側の東新井宿村よりも手前にあるように見える。

※日光道中絵図

これを手がかりに現在の場所を推測すると、現在その辺りにはバスの営業所があって、塚のようなものの痕跡は見当たらない。

しかし、バス営業所内のバスターミナル脇には江戸時代からのお地蔵さんが、そして近隣には庚申塔らしきものが残っている。

これを、何らかの痕跡と捉えるのは、無理があるだろうか?


③ 姥塚&姥が池

古墳が見晴らしのいい高台にあったと仮定すると、姥が池のあったあたりはまさに高台にあたる。
池はやがて埋められ畑になってしまったのだが、埋め立てた土というのが、仮に古墳の盛土だったとしたら?

まったくの想像になってしまうが、ありえなくは無いと思う。

立地的に、稚児桜があって、山のような場所があって、池&塚がある。


そして、先の「稚児桜」の説話は、現在では稚児は将軍様の子と言われることがあるがもちろんそんな訳はなく、1800年あたりで桜は枯れ池と塚が形ばかりになるほどに風化していることを考えると、もともとの話は相当歴史が古いとも考えられ、であるなら、説話の元になった故事があったと推測できなくもない。

姥ガ池があったとされる場所は、現在、首都高速道路が走っている。そして、山のような場所は削られて、現在では建物が立っているが、以前は公園だった。公園以前は畑だったと思う。

池の推定地は西高東低で、低い方の土地は今でもジュクジュクとした水気のある畑に見える。


◆◇【道合の古墳】◇◆

候補地

① 団地近くの兄弟塚

道合には大きな団地があるのだが、その近くにはかつて僧庵があり、尼さんがいたという話が残っている。
そして、僧庵からやや離れた場所に、大小2つの塚があったという。

これを二つ塚、あるいは別名兄弟塚という。

この兄弟塚には、武士の兄弟の説話が残っているのだが、その詳細ついては機会を改めるとして、団地からそう遠くはない場所に、この塚があったものと思われる。

二つ塚のあたりには桜の木が植えられ、明らかに周囲とは異なる雰囲気があったと伝えられている。塚と僧庵(墓もあったらしい)があったということから、昔からそういう場所(聖地、埋葬地)としての認識が人々の間にあったものと思われる。

例えば「日本の神々」には次のように書かれている(孫引き-「民俗神の系譜」)。



「小野はさらにモイドンのモリは、遺骸の上に土を盛り、あるいは供養のために土を盛り、その上に大きくなる木を植える民俗とつながっていて、土を盛ることに由来したが、中心が木の方に移って、モリという語が形成されてきたのではないか、と述べている。」
(※モリ→森→杜、鎮守の杜など)

僧庵と塚の近くには小さな池があり、この池を汚すと祟りがあると言われていたという。

この地は特殊な、或いは神聖な地としてみられていたのではないか?

そうとう昔に行われた巨大団地の開発、そしてすぐ側には外環道が走る。団地の高層化と外環道開通以前には、この台地の坂の上からはとても綺麗な富士山が見えた。見晴らしのいい場所である。


② 外環道近くの仙元祠

仙元祠が古墳と関係あるかもしれない、というのは、前述の通りである。
実は、先ほど①の団地の近くに、かつて仙元祠があったことが、やはり明治の地図からわかる。

が、現在、その場所と思われるところを外環道が通っているため、現地を歩いてみたものの仙元社らしき祠が見つからない。

外環道の脇に小さな稲荷社があるので、もしかしたらこれが元はそうなのかもしれない。
で、距離的な近さも考えると、ここは上記①の兄弟塚の候補地にも上げられると思う。

すぐ脇には外環道が、そして近くには浄水場がある。


③ 神根小学校周辺(富士塚跡、高木前遺跡等)

富士塚が、古墳と関係あるかもしれないというのは前述のとおりである。
神根小学校の近くに、富士塚の跡が残っている。

ここには富士塚は現存しておらず、ただ石碑によって富士塚のあったことが確認されるのみなのだが、小さな祠と石碑は今も残っている。

この富士塚跡の背景に神根小学校があり、ここは高台に位置している。
この場所は東と南に眺めのよい場所で、見晴らしがいい。

富士塚跡&神根小学校の前には東西に伸びる道があるが、昔の地図を見るとこの場所はやや北回りに迂回されていたようだ。

この場所も富士塚つながりで怪しいと睨んでいたのだが、実はここの富士塚の歴史はさほど古くはないようだ。富士塚の多くが江戸時代のものだが、しかしここは明治の終わり頃に分祀されたらしい。

しかし、「ほんのり梅酒さん」からの情報提供によれば最近でも神根小から土器が出土したというし、神根小周辺は高木前遺跡などもあるので、神根小学校~高木前遺跡あたりというのは可能性が高いのではないかと考えている。

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以上が、現時点までの調べた記録。

実を言うと、他にも2ヶ所、怪しいと思っている場所があるのだが、色々と差し障りがありそうなので自粛することにした。

以前から調べているのだが、専門外の私にはハードルが高い問題で、なかなか核心には近づけない。考え違いや的はずれな推測などもあると思うが、お気づきの点があればぜひ指摘してほしい。

2014年2月10日月曜日

髪の毛にご利益ありと思いきや。

少し前に「毛長神社」という神社を知って以来、色々と考えることがある。


そもそも、毛長(けなが)という名称については、「毛長川」という川の名前としては以前から知っていた。この流域には古墳が多いらしい。私の住んでいる川口市から都内に向けて流れている川で、古墳の時代から交通の要所として栄えてきたらしい。

舎人の方へ行く用事があり、偶然、毛長神社という名前を知った。


神社の名称として毛長が使われていることで、

「もしかして、髪の毛にご利益ありか?」

と興味を持った。


男性なら必ず、“髪の問題”に興味を持つ時期はあるはずだ。
ご利益があるのなら、ぜひお願いしますというところだ。


ちなみに、北区の王子神社の境内に、関神社という神社がある。

ここは「髪の祖神」と崇められていて、一部の噂には毛生え祈願で来る人も・・・という話もあるが、私は騙されない。
そもそもここは蝉丸法師がカツラを考案したところからスタートした神社だし、毛髪供養のための毛塚があったりする。どっちかというと、というか正直、理美容師やカツラ業者側の立ち位置であり、カツラ業者にご利益をと考えると、薄毛の人にとっては反対の方に作用しそうじゃないか。

ということで、注目が集まったのが毛長神社。

毛が長いと書くだけあって、いかにも期待が膨らむ。


ところがところが、毛長の由来を調べたところ、

「とある女が不幸な理由(破談やら自然災害など)により、沼で命を落とす。後日、流れず漂っていた長い髪を、きっと女のものだということで丁重にまつりあげた」

というような話だった。
・女の髪を祀る毛長神社と毛長沼の謎


話の照準が、毛に集中しすぎている。

というか、残っているのが、毛しかない。

毛が失われるのは悲しいが、毛以外が失われる方がもっと嫌だ。


これは“毛”とは名につくものの、抜け毛予防やら養毛にご利益なんていう、軽い話ではないようだ。

意外すぎる、というか思いのほかに重い話だったのでびっくりした。というか、ちょっと怖い。髪の毛だけが漂うに至る人体のプロセスを想像すると、ゾッとする。

しかしながら、この話にはいくつかバリエーションがあるようだが、いずれも怨念やら祟りやら怖い話系の方につながっていない点から考えるに、きっと丁重に供養されたか、或いは御神体とされた毛そのものと女の死には直接の関連がないのかもしれない。という方向性でお願いしたい。


それにしても、沼や池にまつわる話には、女性が身を投げるような話が多いように思う。

私の地元である川口市には、こんな話が伝わっている。

「ある時、お殿様一行がやって来た。お殿様の子供も馬に乗っていたのだが、運悪く落馬してしまい、命を落としてしまった。乳母はたいそう悲しがり、近くにあった池に身を投げて死んでしまった」

この池は姥が池と名付けられたが、かつて7~800坪近くあったとされるが、江戸の末期の時点でほとんど埋められ僅かに形ばかりになっていた。今では当然、跡形もない。



今ではあまり想像できないけれど、かつての関東の低地のあたりでは、そこかしこが水辺だった。江戸時代の初期の頃までは、多分そうだったと思う。

埼玉には大宮から川口にかけて見沼という大きな沼があったし、千葉と茨城の堺のあたりは、(今でも割と多いと思うが)沼やら川やらが本当に多い。東京も、日比谷のあたりまで湊が入り込んでいて、江戸城の目前にまで海が迫っていた。

それらは埋め立てられ、町になったり、水田や畑に利用されるようになる。


沼なんかが多かった時代は、子供なんかの事故も多かったんじゃないかな~と思う。
溜池やら川であれば、溺れてしまったら遺体は上がる。
でも、沼だとどうだろう?

水田利用されているような場所なら、或いは割と見つかりやすいかもしれないが、大きな沼で泥の深い所にはまってしまうと、長期間見つからないかもしれない。

神隠しの何割かは、そんな事故が関係しているのかもしれない。


沼というと暗くジメジメとしたイメージがまとわりつく。私たちの中に、沼にまつわる悲しい思い出が刷り込まれているのかもしれない。



今回、この毛長の話を書くにあたり、困ったことが1つだけある。

神と変換しようとすると、髪が出てきてしまうところだ。

例えばカミカクシと入力しようとすると、髪隠しと出てしまう。


髪の呪いかもしれない。

毛長神社の記事を書いた翌々日に、都知事選で舛添氏が当選したことも、何か関係があるのかもしれない。

2014年2月4日火曜日

元郷・氷川神社に行く。

先日、川口市元郷にある元郷・氷川神社に行ってきた。
埼玉高速鉄道線の「川口元郷駅」から徒歩5分程度だろうか。なかなかの良い神社だった。

で、この氷川神社、なぜか武蔵國四之宮とある。

四之宮は秩父神社だと思うのだけれど、これはどういった理由か。少し疑問だけれど、考えてもわからないのでスルーすることにした。

で、この神社、狛犬に安産の霊験ありとのことだが、これまたどういう経緯なのかわからない。

もともと何らかの信仰があったのかもしれない。
何気に謎の多い神社である。

謎といえば、この神社には第六天が合祀されていて、、境内に第六天宮がある。

第六天社とは因縁浅からぬ関係・・・でもないのだが、やはり気になる。江戸の頃には関東で数百、もしかしたら千前後はあったかもしれない第六天社。川口市内でも20弱はあったはずで、その1つがここである。

ちなみに私は今年、6つの第六天社をお参りしようと計画している。
1社めが武蔵第六天神社で、これは年初に行ってきた。
・第六天神社へ・・・欲界天の最高所に宮殿を備える超強力な天魔を祀る神社
・光るご神体~武蔵第六天神社の続き話

2社目が、柳崎の氷川神社で、あそこの雰囲気も私好みの、静かで、特に何もない感じの場所だった。柳崎の氷川社では、なぜか第六天のみがお堂もなく雨ざらしで置かれている。これまた、なぜだろう?

で、3社目が、今回の元郷氷川神社の第六天である。

やっと半分だ。

あと3社、どこを回ろうか。

川口市から外へ出て、都内に足を伸ばそうか。
只今、計画中である。

2014年1月23日木曜日

浦寺の浦は何のウラ?

急に、ふと、浦寺という地名が気になった。

私のいう浦寺というのは、今の川口市、少し前までは鳩ヶ谷市にあり、今では桜町と呼ばれている場所だ。地名としてはほぼ消えてしまった浦寺だけれど、昔は浦寺村という一村だった。

寺というのは、近くに地蔵院や法性寺が、そしてかつては地蔵堂や観音院があったようなので、その関係なんだろうと思う。


気になるのは、浦。

この浦というのは、どういう意味だろうか?

ざっと推測すると・・・。

①海岸や水辺を指す、浦か。
②それとも、裏から転じたのか。
③あるいは、上から転じたのか。

気になる。
鳩ヶ谷には郷土史や歴史に興味を持っている人が多いので、あるいは既にどこかの本か資料に既出なのかもしれない。今度図書館に行く用でもあったら調べてみたい。

それにしても、浦寺のように、地名が消えてしまうのは残念なことだと思う。まだ浦寺くらいの規模であれば、“地名の記憶”そのものが消えてしまうことは無いと思うけど、たとえば小字なんてすぐにわからなくなってしまう。

例えば、旧浦寺村の隣に位置する西新井宿村(現在の川口市大字西新井宿)には、屋敷添という小字があったらしいが、どこにあったのか検討もつかない。
また、旧前川村(現在の川口市前川)には、笠脱という小字があったそうで、そこに平六代(清盛の曾孫)が落ち延びてきたという伝説があるのだけれど、ここもどこだかわからない。

「わからなくても、問題ないじゃないか」と言われればそれまでだけど、何だかもったいない気がするのですよ。
地名ってやっぱり、意味なくつけられるわけではないので。その土地の特質、特徴からつけられると思うので。いわば先人たちから受け継がれる知なわけで、最近では災害地名だなんて言われて防災に役立つのではないかという指摘もあります。






地名を変えて、地面の表面をならして建物立てちゃえば、そこがどんな場所なのかわからなくなる。

ところで冒頭の浦寺の浦ですが、地名には色々な説があって、どれが正しいのか判断しがたい。しかしながら、ここではあえて、【浦→海岸や水辺を指す説】で考えてみる。

鳩ヶ谷の地名由来の一説には、波止場のハト、つまり波を止める港、船着場のある谷から来た、という説がある。

近くに川口市神戸(ごうど)があるが、戸のつく地名も旧海岸や川添いに多い。例えば、松戸、八戸、水戸、江戸、登戸、そして兵庫の神戸(こうべ)など。

隣の市である浦和の浦にも、かつて近くまで海が来ていたという1つの説がある。
また、浦和には岸という地名もある。

浦寺にしろ、鳩ヶ谷にしろ、神戸にしろ、浦和、岸にしろ、いずれも高台と低地とが入り組んだ場所に位置しているという共通点がある。


間違いなく、縄文時代には海が来ていたものと思うけれど、果たして地名に影響するほどのことなのかはわからない。色々と想像力を刺激してくれるのだけれど、これは1つの説であるという点には留意しておく必要があるだろう。

そういえば、浦寺の小字には何があったっけ?
神戸村や岸村は?

今度調べてみよう。

地名が何かを教えてくれるかもしれない。

2014年1月9日木曜日

光るご神体~武蔵第六天神社の続き話

前回も書きました「武蔵第六天神社」について。

ちょっと追加で調べてみたので、追記です。
今回は第六天全体ではなく、「武蔵第六天神社」にフォーカスします。

というかですね、神社のウェブサイトもしっかりありました。
あまりネット見ないので(ブログやってるくせに)、気づきませんでした。
リンク貼っておきます。

・武蔵第六天神社

武蔵第六天神社の創建は、神社のウェブサイトによると「第119代光格天皇の御代、天明2年6月15日の御鎮祭」よりと伝えられているらしい。

天明二年というと、江戸時代。西暦でいうと1782年なのですが、この時期がどんな時代だったかというと、ちょうど「天明の大飢饉」のあった時期で、これは「日本の近世で最大の飢饉」であり、つまり大変な時代だったわけです。

時系列で語るとこんな時代。

・安永八(1779) 桜島大噴火
・天明二(1782) 天明の大飢饉(~1788)
・天明三(1783) 浅間山噴火

本当に大変な時代だと思う。
そんな時代に、当社は創建されたらしい。

ちなみにちょっとだけ脇道(地元ネタ)にそれますが、石神の女郎仏(埼玉県川口市)の出来事があったのは寛政二年(1790)なので、とても近いです。
“寛政二年の三月(今でいう5月くらい)のこと。
暴風雨の過ぎた翌朝、山林の中程から女性の鳴き声が聞こえてきた。嵐のあとの見回りをしていた村役は、不思議に思い見に行くと、十八、九くらいの気品のある美しい女性が病気で苦しんでいる。事情を聞いてみるが、話ができる状態でもなく、所持品もないので、どこの誰ともわからない。
そのまま放っておくこともできないので、庚申塚に仮小屋をつくり、そこへ運んで看病した。しかし、其のかいもなく五日後に亡くなってしまった。身元もわからないため、近所の人々を雇って、庚申塚に手厚く葬った。
仏があまりにも美しく可憐であったので、もしや女郎ではないかとの噂がたち、いつしか女郎仏として祀られるようになった。
一説には、由緒ある上臈ではないかとの話もある。越後新発田藩主の烙印で、由あって江戸から帰る途中、心無き付き添えに捨てられたとか。
また別の一説には梅毒に悩んだ(川越あたりの)遊女との説、また、死の間際に病に苦しむものを助けてやりたいと言ったとかで、婦人病に霊験ありと伝えられる。
下の病にきくと噂され、6日を命日と定めて、遠方からも参詣人が多く来る。”

話を戻します。


 このような大変な時代に創建されたと伝えられる武蔵第六天神社。厄病除け・病気平癒に大きなご利益があることで知られているそうです。
では、当社の信仰はどのように始まったのか。

当社の始まりについては2つの説があるようです。

【その1】
その昔、ぴかぴかと光る御神体が元荒川の上流から流れてきた。村人が拾い祀ったところ、この地にあった病患いがなくなった。この神様のご利益は凄いと、評判がどんどん広まっていった。

【その2】
その昔、大戸村に堀切力弥という人がいて病人の面倒をよく見ていた。ある時、元荒川の河畔で雑草を刈っていると、金色の立派な御神体を納めた祠を見つけた。これを自宅に持ち帰り大切に祀っていたところ、夢枕に第六天神を名乗る白髪の老翁が現れて、秋にこの地を悪疫が襲うが、自分を奉拝すれば必ず免れると告げた。この言葉を信じ信仰していると、お告げのとおり疫病が大流行し命を落とす者が多かったが、力弥の一家は無事であった。以来、近郷の人々も厚く信仰すりょうになり、祠の出土した元荒川堤の地に小さな祠を建立して御神体を祀ったのが始まりだという。

ということで、2つの話の重なる部分からわかったのは、どうやら御神体は光り輝くものらしい、ということ。そしてどちらも病気に強い。

それだけ当時は疫病が流行ったのかもしれません。先ほど紹介したお女郎さまの話もやっぱり同じようなものですし。
そして、当社のご利益は確かに大変な評判だったようだ。江戸時代から明治まで、当社は村の鎮守でもなく、更には無社格であったにも関わらず、明治末の合祀政策のなかで他の神社が当社に合祀され、最終的に当社が残り村社となるに至ったというのは、如何に多くの人々に信奉されていたかがわかろうというものだ。

講は江戸時代から現代に至るまで盛んらしく、おそらく現在でも数千人規模の講員がいるものと思われる(これはまったくの私の推定、平成の始め頃の時点で約五千名だったらしい)。

ところで、岩槻にはもう1社、第六天神社がある。馬込という場所で、馬込の氏子の間では「大戸(武蔵第六天神社)の第六天様よりも古い」と伝わっているらしい。この馬込の第六天社には富士塚もあり、とても興味深い。まだ行ったことがないので、機会を見つけて行ってみたい。

馬込の第六天社の前の道路は、かつての武州鉄道の軌道跡であるという。今の国道122号線ですね。

(場所)
・武蔵第六天神社・・・埼玉県さいたま市岩槻区大戸1752
・第六天神社(馬込)・・・埼玉県さいたま市岩槻区馬込200
・女郎仏(妙延寺)・・・埼玉県川口市石神967-2

ところで、武蔵第六天神社の説話に出てくる「光る御神体」って、なんでしょうね?たまに似たような話を見つけることがあります。例えば、以前書いたこれ。

・松の木に光るもの

都内某所の天祖神社の話なんですが、いったい光るものって・・・。

2013年12月24日火曜日

午年の初詣は、やっぱり馬関連の寺社に!!

あっという間に年末で、巳年もあとわずかとなった。

来年は午年。
馬。
うまかぁ・・・。

ここ数年、初詣には地元の神社のほかに、その年の干支に関連した神社に行こうと決めている。

卯年は浦和の調神社。ここには狛犬ならぬコマうさぎがいる。

辰年は龍に関連して大宮氷川神社。素戔嗚尊がご祭神だが、どちらかというと地主神である(と勝手に推測している)水神様という視点で考えた。

巳年は蛇伝説のある、興禅院・弁財天と決めた。本来であれば三輪山か白蛇伝説のある川越の高天ヶ原神社にでも、と考えていたのですが距離的な問題もあり、人頭蛇身である宇賀神、あるいは弁財天で考え、地元近くで蛇伝説のある場所に決めたという感じです。

で、来年は、午(馬)、と・・・。



ぱっと思い浮かぶのは馬頭観音、馬関連の神事のある寺社・・・。馬といえば、八尺以上の馬を龍と呼ぶという話もあるので、少し飛んで龍関連の神社でもいいのかもしれない。

ということで、考えてみた。
来年、午年ならではの馬関連、初詣の候補地。
しかも埼玉県川口市近辺では・・・?

【第一候補】
明神社。

場所はさいたま市緑区の井沼方。JR武蔵野線・東浦和駅から近い。
ここは平将門を祀っている。

将門といえば、馬との関連が強い。家紋は荒馬を繋ぎとめた形の「繋ぎ馬」だし、将門公の躍進には馬の強さがあった。

平将門を祀る神社としては、有名な東京の神田明神や大手町の首塚、茨城県の国王神社などがあるが、私の住む街からの距離間でいえば、東浦和の井沼方の方が断然近い。

この明神社は、将門公の家臣だったといわれる国谷家が祀ったという由来があるらしい。

平将門というと怨霊のイメージが強いかもしれないが、誰にとっての怨霊かといえばそれは朝廷にとってであり、同じく日本屈指の大怨霊(朝廷にとって)である菅原道真が学問の神様、天神様として広く信仰されていることを考えると、平将門にもっと光があたってもいいのではないかと考える。

何より、個人的に私は平将門が好きである。


【第二候補】
調神社。

ここもさいたま市、JR浦和駅からの神社だ。
先程も書いたけど、ここは狛犬ならぬコマうさぎがあることで有名で、結構大きな神社でもある。

御祭神は天照大神であり、これまた祭神としては馬に関連がない。

けれども、神社のすぐ脇に、「日蓮上人の駒繋ぎのケヤキ」がある。

かつて日蓮が佐渡へ流される途中、ここで難産の女とあい、馬をケヤキにつないで助けたという伝説がある。

と、まぁ、それだけの話で「馬、ほとんど関係ないじゃん」と思われないでもないが、妊婦さんなんかはお参りにちょうどいいのではないかと思う。

何より、なぜだか浦和という地は馬と縁がある。

浦和競馬場(?)があるし、地名にも、駒場、 大牧、大間木、尾間木など馬を連想させるものが多い。そんな浦和にある調神社、行ってみるのも悪くないのではないか・・・。


【第三候補】
子日神社。

子日神社の御祭神は現在では大己貴命であり、しかし、そもそもは子の聖である。子の聖といえば飯能・天龍寺に伝わる子の聖のご法難の話に、天龍が出てくる。つまり、龍つながりである。

うん、強引だ・・・。

で、ここは川口市新井宿、埼玉高速鉄道の新井宿駅近くにあるのだが、子日神社の隣にある多宝院(もしくは、向かいの宝蔵寺?)から、馬頭観音が出てきたという。現在、馬頭観音がどこにあるのかは、私はわからない。知っている人は教えて欲しい。

つまり、ここで馬頭観音、馬が再度つながる。

そして、この子日神社からやや南に進んだ場所には、かつて駒が塚というものがあり、殿様の子供(稚児)が落馬した祭、馬をつないだという言い伝えの場所が、あったはずだ。

はず、というのは、現在では場所が不明だからなのだが・・・。

ということで、かなり強引に馬つながりにしてしまったが、子日神社については1つ気をつけなければいけない事がある。それは、子日神社のすぐ近くには、成田山講の不動堂(かな?)があり、もし仮に先に書いた平将門公のお参りをするのだとしたら、ここに矛盾が生じてしまう(成田山新勝寺は平将門調伏の儀式を行った)。

また、留意点としては、子日神社の氏子には、かつて「芦毛の馬をかわない」という禁忌があった。つまり贅沢してはいけないという意味かな?と思うのだけど、よくわからない。



それにしても、馬と神社というのは、絵馬などで繋がりが深いわりには、考えてみると結構難しい。
今のところ、明神社(あるいは神田明神)が私の中の筆頭候補というところだが、今年はまだ1週間残っている。

もう少し、考えてみよう。


2013年9月30日月曜日

人形の思い出

何らかのマジナイを施すさいに、ヒトガタを使うのは割とスタンダードな方法だと思う。

例えばひな祭りで人形と人との間に関連性を持たされるのもそうだろうし、いまだ多くの神社で初夏に行われる夏越の祓えでは、ヒトガタという紙に人の悪い部分を寄せる。メジャーなところで言えば“呪いの藁人形”もそうだ。また、一部の人たちにとって有名な“いざなぎ流”でも、様々なバージョンの人形を使った呪い調伏法があるという(金槌で叩く法は天神法、針を打ち込む場合は針法、矢を射かけるのは杣法、など)。

呪いというのを私なりに解釈すると、何かがあった時に、それを「呪いだと思うかどうか」が大事で、例えば具合が悪くなり、医者にかかっても良くならない。その時に、これを呪いの影響だと発想できるかどうか、そしてそれを信じられてしまうのかどうか、そこの部分が重要なのだろうと思う。

私は呪詛について知識がないのであまり深入りしないでおこうと思うが、人形というものについて、私の中にうっすらと残る1つの記憶がある。

あれは20年か30年くらい前のことだと思う。

私の住む川口市の、しかも神根地区の某所にて、私は偶然洞穴を見つけた。
大人であればかがんで入れるくらいの穴で、あまり定かな記憶ではないが、奥行は2~3mくらいだったと思う。

自然にできた洞窟なのか、それとも人が作ったものかわからない。川口市には畑が多いこともあって、防空壕などが割と残されていたりする。あるいは、木曽呂の富士塚がかつて胎内くぐりができたように、そういった人工物の1つかもしれない。

人工物か自然のものかわからないが、その穴の奥に、一体の日本人形が置かれていた。しかも、ただ単に落ちていたのではなく、意図的に、しっかりと(まるで祀られているかのように)置かれていた。

子供のいたずらなのかもしれない。
あるいは、何かの信仰があったのかもしれない。呪詛かもしれない。

実際のところはわからない。

その場所は、今は多分無いと思う。

あの時、私は散策のなかで偶然見つけた場所だった。

間違いなく個人の土地だと思うので、具体的な住所は伏せておくが、場所は神根地区である。
近くにはあまり広くない墓地と寺がある。

2013年9月26日木曜日

私の季節

寺社巡り、とくに小さな小祠などを巡り歩く者にとって、夏場は受難の季節だ。
何が大変って、生い茂る草と、蚊。

夏場の雑草の成長具合はすさまじく、少し放っておかれるとすぐにボウボウになってしまいます。都度、手を入れられる大きめの寺社なら良いのですが、管理主体が個人や、曖昧なグループである場合、手入れがとても大変になる。


笹根の稲荷も、石神の御岳塚も、西新井宿の姥神様も、道合の富士塚跡も、大変なのです。以上、ぜんぶ川口市神根地区のものですが・・・。草がボウボウで祠が埋まって見えないなんてことも多々あります。

なんだったら、本当に草刈を手伝いたいくらいです。


草がボウボウだから、やぶ蚊も多い。
珍しく美味しい獲物がきたぞとばかりに、襲いかかってくるのです。

やぶ蚊を払いながらお参りする姿は、得体のしれない踊りを舞っているようで、不審者に間違えられること、これ必定。

さあ、もうしばらくすると草は枯れ、小祠にお参りしやすくなる季節になります。
暑がりの私にとって、居心地のよい季節。

私の季節。


ああ、今夜はだいぶ涼しいな。

2013年7月23日火曜日

木が切られ、道路が拡張される

地元(埼玉県川口市)ネタです。

最近気がついたのだが、新井宿の子日神社と西新井宿の氷川神社、どちらも「御由緒」なるものがか掲げられている。
「御由緒」の内容は、縁起と祭神、神徳、祭日など。
書いてある内容からすると、神社庁の「埼玉の神社」の記載内容から一部抜粋しているのかもしれない。

最近、このあたりは、新井宿駅を起点として、催し物などが盛んに行われているようだ。私は1度も行ったことがないのだけれど。

その流れで、地域の歴史を残していこうという流れなのかもしれない。


一方で、この地域では道路拡張など開発が進みつつある。
立地の都合もあって、高度成長期やバブル期などの土地開発を(比較的に)くぐり抜けてきた当地だが、駅ができたこともあり、最近は色々と風景が変わりつつある。


かつて、西新井宿には牛頭天王社があった(氷川神社に合祀)。
御成道から少し入った場所にあったとも思われるのだが、その道の入口に、まるで目印であるかのように、1本の大きな木が生えていた。
御成道を通っていると、遠くからでもこの木が見えたものだが、道路拡張の為か。いつの間にかなくなっている。

仕方のないことなのかもしれないが、これが私には少し残念な気がするのだ。


日本人の習性として、たとえ人間以外であったとしても、長寿のものには敬意を払うという傾向がある。
なので、人の何倍も生きている木には敬意をはらい大切にするし、そこには人知を超えた霊的な存在を感じて、敬うことも多い。


伐採できない木という話が、全国各地にある。

なんでこんな場所に木が、と言うような場所を、車を運転していれば何度か目にしたことがあるはずだ。大抵の場合、伐採しようとすると神罰がくだったり、霊的現象(事故にあう、霊がでる等)が怒る、などと言われている。

神罰や霊現象を信じるか否かは置いておいて、自然に多少の配慮をすることは、けっして間違いではないと思う。その配慮の程度が問題なのだと思うが、長く生きている木には敬意を払うという非合理的な考え方を、少なくとも私は好ましく感じる。人は欲の強い生き物なので、遠慮深さを保つことを意識せずにいたら、いつの間にか歯止めが効かなってしまうのではないか。


さて、この道路拡張の流れは、新井宿・西新井宿だけにとどまらない。
石神の方にも随分前から伸びていて、その切っ先は「おんたけさん」こと御嶽講の塚の目前まで来ている。どう考えても、この塚を崩さないと、道路は拡張できない。

長らくこの道は、車の車の通行量の割に歩道のない狭い道で、小学校の通学路でもあり、大変危険ば道路でもあった。かつて痛ましい事故もあり、それを機にその小学に通う小学生は通学時にヘルメット着用を義務付けられていた時期もある。
なので、安全に配慮する目的からも、道路拡張は仕方のないことだといえる。

ただ願わくば・・・。
できる限り、移築や保存を心がけてほしい。
そして丁重な祭祀を。

2013年7月17日水曜日

西新井大師と胡録神社

今日は西新井大師に足を伸ばした。

東京都足立区西新井にあるのだが、この地名は、私の記憶が確かなら、新しい井(戸)の西にあるから西新井という由来だったと思う。

それであれば埼玉県川口市にある新井宿も、新しい井なのかと思うが、このあたりは定かではない。新井という地名は埼玉や東京のあちこちにあるが、川口の新井宿はその立地のほとんどが高台にあるし、宿とつくわりには宿場であった記録がない。

ただ、川口市にある西新井宿はかつて新井宿村から分村され、西の冠をつけることになったらしく、何の縁があるのかわからないが、現在、西新井宿にある宝蔵寺という寺は、私の記憶が正しければ、西新井大師と繋がりがある。


ところで、西新井大師から南西におよそ1キロほど行ったところに、胡録神社という神社がある。
今日は時間がなかったので足を伸ばさなかったが、ここも中々興味深い神社だ。
舎人ライナーという路線の江北駅のすぐそばにある。この神社、もともとは第六天を祭っていたという。

胡録神社という名の神社は、千住、松戸、市川のあたりにいくつか点在していて、一部では地名にもなっているらしい。

第六天を祭っていた神社の多くは合祀されたり、名称や祭神を変えたり、あるいは消えてしまったりしてその姿を変えてしまっている。

色々と理由はあると思うが、大きな出来事の1つは間違いなく幕末から明治にかけての神仏分離・廃仏毀釈の流れにあるのだろう。

本来の信仰が非常にわかりにくくなっている。

さてこの神社、今はどうかしらないが、私が行った時には、鳥居に蛇(龍)を模した注連縄のようなものが巻きつけられていた。写真も撮っているので機会があれば再度アップしたいが、なんともユーモラスな表情の龍蛇だ。

龍と関係があるのか?
龍といえば水辺だが、水辺であれば女神であることも多い。しかし、ここは千木・鰹木を見るに、男神のようだ。

ここにもきっと、色々な歴史があるのだろう。
時間のあるときに、改めて調べてみたいと思う。

2013年7月4日木曜日

茅の輪くぐりと、地域を伝承する何か

6月末、夏越大祓だったこともあり、数日過ぎても茅の輪くぐりが残っている神社も多い。
祭神がスサノオ、牛頭天王かどうかにかぎらず、色々な神社で茅の輪くぐりはある。
茅の輪、この夏なんどくぐったことか・・・。

色々な神社で行われる茅の輪くぐりだが、とはいえ、これが行われるのはある程度の規模のある神社に限られる。きっと、総数としては、茅の輪くぐりを行う神社数は昭和以降、ぐんと減っているに違いない。

例えば埼玉県川口市は西新井宿の氷川神社では、かつて近隣にあった牛頭天王の社を境内に移したことから、茅の輪くぐりの行事が行われていたらしい。しかし、昭和も後半になるにつれ、この行事も姿を消してしまった。西新井宿町会では、今では子ども会(という小学生の集まる会)もなくなってしまったらしい。詳しくは知らないが、道路の反対側にある新井宿町会では、子供たちのイベントに一生懸命なのを見ると、その対比が寂しい(と言っても、新井宿町会のそれは、私は張り紙でしか知らないのですが)。

経済が低迷し、子供たちの少なくなった今だからこそ、増えつつある高齢者と子供たちをつなぐ、世代を超えた地域の行事が必要な気がするのですが。運動会とかそういうのではなく、地域をはぐくむような、伝承される何かを。


そういえば、西新井宿にはつい最近まで、西野公園という大きな公園があった。しかし、それが今では老人施設に変わってしまっている。
どうですか?
せっかくなので、ここは1つ、高齢層とちびっこ達が関われるタイアップイベントを企画してみては・・・?

と、第三者目線で言うのは、かなり身勝手かも。

2013年6月22日土曜日

夏至の日に考える、縁結び・子宝の神様

もうすぐ日付が変わってしまいそうだが、本日6月21日は夏至だった。
言うまでもなく、夏至(げし)とは、一年中で一番昼が長い日。 二十四節気の第十。つまり、日(太陽)の力が最大限に発揮される日なのだ。

太陽と言えば、天照大神。日の巫女だ。
アマテラスといえば、そう、伊勢神宮。
伊勢神宮のおひざ元、三重県伊勢市の二見浦にある夫婦岩では、夏至の時期だけ夫婦岩の間から朝日がのぼる。ゆえに本日、当地二見興玉神社の夫婦岩前では、恒例の禊ぎを行う夏至祭が行われたようだが、あいにくの雨だったようだ・・・。日の力がマックスの日なのに残念だ・・・。


ところで、この夏至の日というのは、目を諸外国に向けてみると色々と面白い行事が行われている。何でも北半球では歴史的に、夏至といえば「性欲をかき立てる日」とされているのだそうだ。

・至は男女の出会いの日? 欧州の伝統行事(CNN)

男性性器のシンボルと思われる柱を囲んでダンスを踊ったり、未婚女性が未来の男性を占ったりと、国によって色々あるみたい。日本でも夫婦岩にてお祭りがおこなわれるくらいだから、もしかしたら似たような意味合いがあったのかもしれない。

ところで、イギリスの有名なストーンヘッジでは、ドルイド教に由来する夏至祭りが行われる。ドルイド教とは、現在ではほとんどは失われてしまった昔の宗教だが、例えばハロウィンなどドルイド教に由来する風習は今でも形を変え生き続けている。
原始ハロウィンの考え方は、日本で言えばお盆や正月に通じるとところがあるし、木々や自然に神性を見出すところなんて日本の縄文文化と通じる。遠くにあるが、何やら近いものを感じる不思議な宗教だ。

そのドルイド由来の夏至祭り、男性神と女性神を表す太陽と地球との出会い祝う意味が込められているという。

あれ?

男性神が太陽で、女性神が地球なんだ?

日本では逆ですね。

アマテラスは女性神なのだから。

そういえば、もともとのアマテラスは男性神だったなんて説があったな。


まあ、いいか。


ともかく、夏至の本日は男女に関わる日であるというのが、世界の共通項の1つなのでした。

ちなみに、伊勢神宮では天照大神を祀っていますが、夫婦岩の方の二見興玉神社の祭神は、猿田彦大神と宇迦御魂大神です。

伊勢神宮、天照大神、夫婦岩、猿田彦、宇迦御魂大神、男性神と女性神、天と海・・・。伊勢神宮にかかわる謎は大きすぎて、私の手には負えません。


さて、夫婦岩の夫婦で思い出しましたが、東京にも夫婦にかかわる神社があります。
私好みの小さな神社なのですが、場所は新宿区。最寄り駅の新大久保から徒歩10分ほど行った住宅地の中にひっそりとある、夫婦木神社です。

祭神は伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)で、日本をつくった最初で最強の夫婦ですね。イザナギはアマテラスの親でもあります・・・。

子宝、安産、縁結びで知る人ぞ知る非常に有名な神社で、結婚式もやっているみたいですが、境内はとても狭い。

夫婦木神社というと、山梨にも同名の神社があり、こちらも有名な神社のようです。この山梨の方には男性・女性の性器のような霊木があるようですが、このような繁殖に対する神聖視が、そもそもなんでしょうね。石仏・道祖神や、東北などにある藁でマラをつくっているのと同じ始まりなんじゃないかと思います。

しかし、イザナギ&イザナミのカップルは、確かに子宝はあるものの、縁結びと安産にいいのだろうか・・・という捻くれた疑問が湧き上がったが振り払い、そう言えば我が町、埼玉県川口市には似たような神社がないだろうかと考える。


子宝といえば、新井宿の子日神社が上げられると思う。と言っても子日神社は子宝で信仰されていないのだが、子であるネズミは多産で子供をたくさん産むため、“子(ね)”の神社は、子宝子孫繁栄を願う意味で信仰されやすい。

また、第六天神社も子孫繁栄で信仰されてきた。しかし残念なことに、明治の神仏分離によって第六天のほとんどが姿を消している。末社としてひっそりと境内の隅に鎮座しているか、あるいは境内には既に姿はなく合祀されてしまっているか。
川口市内の第六天神社は次の通りである。
・西立野の二宮神社
・元郷の氷川神社
・領家の稲荷神社
・金山町の川口神社
・青木の氷川神社
・小谷場の稲荷神社
・柳崎の氷川社
・鳩ケ谷の氷川神社


夫婦といえば、姥神さまを思い出す。
姥神さまは西新井宿にある。日光御成道沿いで、石神地区のすぐそばだ。
言っておくが、姥神さまはやきもち焼きと言われているので、夫婦で行くのはタブーだ。なので縁結びも何もないのだが、実はかつて姥神さまには旦那さんがいた。道路の反対側に爺塚があったはずなのだが、現在行方不明だ。

うちのお爺さんが行方不明です。
どなたか知りませんか?


取り留めのない話になってしまった。

上記の事については、いずれ改めて。

2013年6月13日木曜日

子日神社は、何の神社か?

私の住んでいる地域に、子日(ねのひ)神社という名前の神社があります。

ちょっと変わった立地の神社でして、何が変わっているかというと、道路を挟んで反対側に氷川神社があり、両社は向かい合っているのです。ずっと昔から、江戸時代から両社は対面している。



この子日神社は↑の絵図でいうところの、上に位置している。

この神社、現在の祭神は大己貴命(おおむなちのみこと)であり、大己貴命はイコール大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、スサノオの子孫といわれる神様で、いわゆる国津神と呼ばれる古くからの神様です。

ですがこの子日神社、そもそもは子の聖を祀っていたという。
子の聖とは、簡単に言ってしまえば、とある偉いお坊さんのことで、この子の聖を祀っている神社は、実は関東を中心にあちこちにある。結構な数があると思われるのだけど、あまり知られていない。つまり、おそらく歴史の途中で廃れてしまったというか、勢力の弱まってしまった神社なのではないかと思う。

例えば私の住んでいる埼玉県川口市には、私の知るだけで3か所の子の聖を祀った神社があり、そのほかに1カ所、子の聖にゆかりの地名が残っている。東京都内でも、例えば目黒区に地名が残っていたりするし、神奈川にもあちこちにゆかりの神社が残っている。

いずれの神社も、子神社、根神社、子の権現という名称で、子の聖か大国主命(大己貴命)を祭神としている。

本当にあちこちにあるのだけれど、一番有名なのは、埼玉県飯能市にある天龍寺だ。そこには子の聖を伝える話が残っている。

子の聖とは、天長九年(832)、子の年、子の月、子の日、子の刻に紀伊の国で生まれ、7歳で出家して仏門に帰依したといわれ、数々の伝説を残している。そして、子の聖を祀る神社(寺社)に共通して、足腰の神様という特徴がある。先の天龍寺には大きな草鞋があるし、冒頭に紹介した私の近隣地域にある子日神社にも草鞋が下げられている。



分布から見て、山伏と同じように山岳信仰に近いものがあり、ゆえに足腰につながったのではないかと私は見ている。子の聖をあがめるお弟子さんか信者が、各地に子の聖を祀ったのではないか。


ちなみに、ここで紹介している子日神社のある場所は、埼玉県川口市の新井宿という場所だ。
ここはちょっとした高台にあり、近くに流れる川もなく、用水を引くのも苦労する場所で、江戸時代の資料などをみると随分干ばつ・水不足に悩まされたようだ。

実は、子の聖には龍、つまり水に関する説話がある。

先に紹介した天龍寺に伝わる子の聖の話には、悪鬼に火で攻められた子の聖が龍の力によって豪雨を降らせ、災難をかわした話が残っている(天の龍、ゆえに天龍寺)。

聖(ひじり)は、すなわち「日知り」、日を知る知識の深い人である。ゆえに、全てではないにしろ、子の神の信仰と雨乞いに、多少の関係があるのではないかと考えているのだが、それについてはまた改めたい。


なお、今の祭神は大国主命(大己貴命)が祀られている。祭神が変わってしまったきっかけは明治の神仏分離だと思うけれど、それにしてもなぜ大国主命(大己貴命)なのか。

私は次の3つの理由が関係していると思う。

1つ。
子の聖の“子”は、ネズミに関係する。大黒様とも融合する大国主命はネズミを使役している。ちなみに、大黒様は米俵の神様でもあり、米すなわち農業と水は切っても切れない関係ではないかと考えるが、また話が元に戻ってしまうので深くは追求しない。

2つ。
子の神の“子”は、根に通じ、根の国といえば地底の(死者の)国であり、そこにはスサノオがいる。神話に伝わる大国主命の武勇伝に、根の国へ行き、スサノオにシゴカレル話があるとおり、大国主命と根の国は、深い縁がある。

3つ。
2つ目で紹介したとおり、大国主命は根の国へ行き、スサノオにシゴカレル。そのしごきの1つに、火攻めがある。寸前のところでネズミに救われるという(1につながるような)話の流れなのだが、この火に攻められるあたり、子の聖の法難と同じではないか。火防の神にならなかったのが不思議なくらいだが、このような共通項がある。

他にも理由があるかもしれないが、私は上にあげた3つの理由を指摘しておきたい。


子の神、子の聖は関東を中心にあちこちにあるのに、あまり知られていないのは残念なことだと思う。私の住む埼玉県川口市には、かつては少なくとも4つの子の神社があったはずだが、独立した神社として残るのは、わずか1つ。子日神社のみだ。

今まさに消えそうな、1つの信仰。

色々と調べて、書き遺して行きたいと思う。

2013年6月10日月曜日

夏場は小祠巡り受難の季節

神社めぐりをするにあたって、これからの時期は受難の季節である。

それなりの大きな神社に行くのなら、問題はないかもしれない。私の言っているのは、小さな神社。それこそ、小祠ともいえる規模の、場合によっては鳥居さえないような祠のことだ。

何をもって受難というのか。

理由は2つある。

1つは、草。

梅雨の時期をむかえ、夏へと至るにつれて、雑草はわんさかと生えてくる。
私がよく行くような小祠では、草刈などの世話をする人もいるのだろうけれど、それらの人力をはるかに上回る勢いで雑草が茂っていく。

埼玉県川口市の石神というところに、旧道沿い(日光御成道)に「おんたけさん」と呼ばれる御岳塚がある。こんもりと小さい山のようになっていて、しかし車通りの多い道路沿いにあってひっそりと存在しているので、よほど注意をしていないと気がつかずに通り過ぎてしまう。
この御岳塚、夏場になると草が生い茂り、余計に目立たなくなってしまう。

梅雨から夏場にかけての雑草の勢いは、小祠を隠し風景を一変させるほどの力がある。

草むしりも大変だ。

たまに1人で頑張って雑草を刈っている風景を目にすることがある。おそらく土地の所有者か、近所の信心深い人なのかわからないが、本当に大変そう。

「小祠の維持管理を手伝う会」でも発足させようか。


2つめは、虫。

1つめの理由と密接に関係するが、雑草に紛れて蚊や虫が非常に多くなる。

埼玉県のさいたま市、昔でいう浦和に六辻という場所がある。
そこの近くには、ひっそりと咳の姥神様が祀られている。
かつては遠方からお参りに来る人も多かったというが、最近では近所の人でも知らない人が増えているらしく、私も見つけるのに大変苦労した。

私が行ったのは夏場だったので、蚊の数のすごいこと・・・。
見事に血を吸われまくってしまった。

首都圏にある小祠は、住宅街の片隅に、ひっそりと座していることが多い。
そこだけ、緑の空間が存在している。

故に、虫にとってもオアシスなんだろう。


ところが、この問題。
今後は生死に関わる大問題に発展するおそれがある。

というのも、最近話題の「重症熱性血小板減少症候群(SFTS)」をご存知だろうか?
ダニを媒介して感染する新しい感染症で、昨年あたりから、日本国内で感染&死者が出始めている。恐ろしいことに、致死率がすこぶる高い。おそらく2桁パーセンテージはあるのではないか。

主にマダニと言われる、ダニにしては割と大きめのダニに噛まれることから感染するらしい。
このマダニは青森以南に広く分布していて、山や林、草むらなどに生息している。

現在のところ、国内で人が感染したのは、九州、中国、四国地方に限られているが、いずれ範囲を広げることは確実だろう。
・重症熱性血小板減少症候群(SFTS)に関するQ&A

草を分け行って、小祠を探す。
今後は命懸けになるかもしれない。

深いやぶに入る神社めぐりの際は、長袖・長ズボンに虫除けスプレーは欠かせない。

2013年6月4日火曜日

災いを背負う神

関東地方に多くある神社のなかに、第六天という不思議な神様がいる。


第六天というと、信長が自称したといわれる「第六天魔王」という言葉を思い浮かべる人もいると思うが、何を隠そう、この第六天という神様は信長が自称するとおり、魔王でもある。

第六天を祀る神社は、明治の廃仏毀釈の流れに乗り、ほとんどが祭神を変えられてしまった。神社の名称も変えられてしまったところも多く、信仰も途絶えてしまったため、今となってはどんな神様だったのか、非常にわかりにくくなってしまっている。

だが、この第六天という神様、江戸時代には結構な数で祀られていたらしい。私の住む埼玉県川口市でも、今はほとんど残っていないものの、かなりの数があったことがわかっている。


なぜ、江戸時代の人々は魔王なんか祀っていたのだろう?


と不思議に思ったけれど、よくよく考えてみれば、日本の神様はどれも魔王的な側面を持っていることに気がつく。

そう、負の側面を持つ神はたくさんいて、神様イコール簡単に善悪に分けられない。


たとえば天神様の菅原道真は日本を代表する大怨霊になったし、首が飛んだといわれる平将門も神田明神を代表に根強い人気がある。全国各地で祀られる古代神話のヒーロー、スサノオも、病や災いを引き連れる疫病神的な側面もある。


そういった負の側面が、転じて福を授ける側になる。

悪が善に変わる。

災いが福に転じる。

夢が叶わず志半ばで尽き果てた神が、今度はその願いを叶える立場に変わる。


これは日本の神の、とても興味深い側面だと思う。

乱暴者神スサノオは、日本中の災厄をその一身に背負う。
まるでイエスキリストみたいだ。


第六天という神についても、もしかしたら私たちが知らないだけで、深い意味合いをもつ神なのかもしれない。何か物語を背負っているのかもしれない。


第六天。もしかしたら、あなたのご近所にも祀られているかもしれない。

2013年6月2日日曜日

公園が少ない

私の住んでいる地域には、公園が少ない。

埼玉県川口市という所の神根地区に住んでいるのだが、市内の中でも緑の多い場所だ。
植木で有名な安行や、かつて広大な沼だった見沼田んぼが近くにあるため、木々は多く、畑も多い。地主さんたちも多いのだと思う。

自然が残されているわりには、公園が少ない。

公園は宅地化が進んでいる場所ほど多いものだ。

このあたりは緑化規制地域でもあり、用途も限られる。雑地にするより畑にしておく方が、税金も少ないのではないかと推察する。

昔はもっと、公園やら広場(空き地)やらが多かったと思うのだが、どんどん減ってきている。代わりに老人ホームや霊園などが、それこそ雨後のタケノコのごとく、どんどん作られている。用途の限られる地域であるが、老人ホームなどはOKらしく、都心や遠方の人々が快適に使える広い施設がどんどん作られていく。


都心の皆様、どうぞご利用ください。
東京からのアクセスもよく、その割に自然も残っていて、まあ、環境も良さそうですよ。

年をとったら神根に。老人ホームから霊園までそろっております。なんと、火葬場も建設予定であります。

大きな道路もあります。
東北自動車道にアクセスする国道122号線、首都高、東京外環自動車道。
どうぞ通り道にも使ってください。

土地はあまっているし、道路アクセスも良いので、機材やら重機やらのヤードもあちこちにあります。


しかしながら、生活する住民としては、ちょっと不満。

だって、公園や広場がまったく少ない。
更に言うと、地下鉄が開通したものの首都圏トップクラスに高い運賃で、たまに遠くからサッカー観戦するのには良いかもしれないが、日常生活で使うには不便であることこの上ない。


正直、思う。

チッ・・・と。

2013年5月30日木曜日

向かい合う神社と、孤独

私が過去の歴史について興味を持ち、自分の住んでいる地域について知ろうとした時に、とても貴重な情報源となったのは神社やお寺です。

気をつけて見るようになると、小さな祠があちこちにあることに気がつきました。

始めて行く土地で神社を探す時、目印となるものがあります。

それは、こんもりとした木々。

住宅街を歩いていて、ふと遠くにこんもりとした森が見えた場合、「あ、神社か何かがあるのかな?」と見当がつきます。

自然を残すという意味においても、貴重な場所ですよね。



さて、なぜ私が神社について興味を持ち始めたか。

2つの理由があります。

1つは上で書いた通り、貴重な情報源となるため。
神社はずっと昔からそこにあり、時に人々の生活に密着してきました。
なので、石碑やら寄進されたものやら、色々な情報が残されています。また、縁起として言い伝えが残っていたり、氏子の間で語り継がれてきたり、あるいは歴史の節目節目に、地域の風習や歴史について興味を持った人々が記録を残したり。
本当に貴重な情報源となります。


もう1つの理由は、私の住んでいる地域にある、とある不思議な神社の存在です。

私の住んでいる地域は、有名な寺社があるわけでもなく、観光資源があるわけでもないので、珍しい神社があるというわけではありません。

何が不思議なのかというと、その立地。

南北に延びる道があるのですが、そこに対面するように2つの神社が向かいあっているのです。

この神社も他の神社と同様、昔からあるので、江戸時代に描かれた絵巻にも、その姿が残されています。

これが、その絵図です。



どうです?
向かいあっているでしょう?

今もこの向かい合う神社は存在していて、周囲の風景は違えど、昔と同じように対面しているのです。

今となっては、私なりに「向かい合う理由」の自分なりの解釈は立てていますが、昔は何とも神秘的に感じていました。

それこそ子供の頃には、

「もしかしたら、この鳥居と鳥居の間には、異次元へと通じる不可思議な力が発生しているのかもしれない」

なんて、相当突飛な夢想をしていたものです。

そんなこんながあり、いまだに「神社とは不可侵で神秘的な空間である」という、スピリチュアルにハマりそうな意識が、私の心の底の方にこびりついているのです。

それが、神社に対して関心を持つ好奇心の1つになっていると思います。


ちなみに、私は神社好きにしては珍しく、スピリチュアルにはまったく興味がありません。
パワースポットにもまったく興味なし。
スピリチュアルにハマりそうな下地はあるのに、スピリチュアル思考にま~ったく興味がわかない。


こんな私って、不幸でしょうか?


神社好きなのに、スピリチュアルに興味がなく、

更に言うと、歴史好きなのに、戦国武将に興味がない。


・・・ちょっと、孤独・・・。