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2014年7月18日金曜日

貧乏神に資産運用の相談をしたりしなかったり。

神社には様々なご利益がある。

縁結びとか、出世とか、病気平癒とか。

私もそうだけれど、大抵の人は何となくお祈りしていると思う。
初詣であれば有り体な内容―例えば、家族の健康や健やかな毎日をとか、その年に立てた目標に関することとか・・・を。または、何がしかの目玉商品的ご利益のある神様であれば、その内容に沿った願いを・・・。


神或いは神社って、病院に似ている。

診療科目がズラリと並んでいる大きな病院もあれば、例えば、ガンや耳鼻など特定の病気や部位を専門とする病院もある。大きな病院の中にも特定の疾患で有名な専門医もいるし、町の小さなクリニックの一人の医師が幅広い病気を診る場合もある。(日本の医師免許は専門科目別ではないので何の診療科目を掲げてもいい)

神社も特定の悩みに専門特化しているとこもあれば、かといってこの分野の願いしか聞かないというわけでもない。
でもやっぱり、特定の悩みがあれば、その分野の専門のエキスパートにお願いしたいというのが人情だ。


しかし、色々な神社を回って調べ歩くうちに、あることに気がついた。
それは、非常に多くの神社において祭神が入れ替わっている、ということ。

例えば、
「Aという神社は●という神さまを祭っているが、もともとは■という神さまを祀っていた」
なんて事が、結構な割合で存在している。
入れ替わっていることが公になっているのであればまだマシな方で、コソッと、いつの間にか・・・或いは有無を言わさず強引に入れ替わりさも最初からそこに居たような顔をして元の神についてはほぼスルーして、なんてケースも。


別の問題もある。

神社の神さまというのは、本来その場所にずっといらっしゃるわけではない。
依り代となる御神体というものがあり、そこに神は宿り得る。神さまは神社、というか御神体にずっと常駐・在席しているわけではなく、鈴を鳴らしたり祝詞を唱えたり、一連の儀式を経て御神体なりその神性な場なりに呼ぶことができる・・・ということで、このご神体は神にかかわる非常に重要というか、神社が神社たる存在意義にかかわる不可欠なものだ。
その御神体そのものが昔と変わってしまっているという事も多いようだった。
その理由も、災害で紛失したとか盗まれたとかいう事情だったり、明治の国家神道統一の過程で鏡に統一されたりと、色々な理由があるようだが・・・。


神さまも入れ替わっている。
御神体も入れ替わっている。

これって・・・。


そもそも。
私たちは神社でお祈りをするわけだけれども、そもそも誰(何)に向かってお祈りをしているのか。何かをお願いするにしても、そのお願いをする相手について知ろうともせず、何も考えずに祈っていた。願っていた。

これはつまり、病気になってしまったので腕のいいお医者さんに診てもらいたいと思いながらも、自衛隊の幕僚長に診てもらいに行ったなんて事をしているようなものだ。・・・いや違うか。


ともかく、そのことに気づいて以来、神社で何事か祈願する場合にはよくよく考えてするようにしている。
相談する相手間違えた、なんて失敗は日常にもよくある事だから。

2014年5月21日水曜日

ペプシの桃太郎がカッコイイ。

ペプシのCMの桃太郎がカッコイイ。
桃太郎を演じるのは、俳優の小栗旬さんだ。



※上の動画がリンク切れの場合はこちら

これはカッコイイ。
カッコイイが、これはもう完璧に日本じゃないな。
大陸的。

赤い岩、砂漠、ここは中央アジア?それともアメリカ?
舞台も場所も設定も、全てが日本的ではない。

それにしてもお金がかかってそう。
どうせなら映画化してくれないかな。

ハリウッド版 MOMOTAROU。

日本文化の焼き直しというか、リメイクというか、リライトというか、いや再発見というべきか・・・。これは新しい可能性を秘めていると思う。私たちに馴染みの桃太郎が、鬼が、キジがサルが犬が、あんな風になるなんて。溶岩の鬼、すごく強そう。

クリエイターって凄い。


私たちが当たり前に感じている“日本”というものが、時に海外から評価されることがある。
「もったいない」なんて、その代表格だと思う。

昨年、東京五輪で話題になった「お・も・て・な・し」もそうだ。


ところで、滝川クリステルさんがプレゼンで、この「お・も・て・な・し」を表現した際、彼女は手を合わせた。あれを見たとき、私は強い違和感を感じた。
日本人が普通、手を合わせる時というのは、どんな時か。

拝む時と、食事の時・・・つまり、死に対して(あるいはそれを超越したもの)だ。


神さま仏様を拝む時、死んだ人に向かったとき、食事でその食材の生命に感謝するとき、いずれも生命の死の部分か、或いは生死を超越した存在に対して手を合わせる。日常で、例えば挨拶や感謝の折に手を合わせるとすれば、それは仏教徒くらいではないだろうか?というか、挨拶のように手を合わせるというのは、日本ではなくて、何だか東南アジアとか上座部仏教、テーラワーダという感じがするのだが。
・・・・・・と思って強い違和感を感じたのだが、あのジェスチャーは意外にも、国外はもちろんのこと国内でも広く受け入れられた。

だけでなく、以前からあの手を合わせるという行為は、東洋好きの海外ミュージシャンが公演の際に行うことがあるし、それどころか、日本のロックバンドのボーカルがやっているのを見たこともある(ちなみに私の好きなミュージシャンだった)。
まぁ、彼らがブッディストである可能性もあるけど。


これは、日本の再発見か。
それとも、日本のリメイクか。

いや、日本の再発明かもしれない(この言葉は、末木文美士氏だか山本七郎さんが使っていたような・・・)。



「お・も・て・な・し」を考えたのも、外国のコンサルタントだったらしい。冒頭の桃太郎のCMも、アメリカの会社、ペプシだ。

どちらにせよ日本というのは外の文化と交渉しながら育まれてきたのも事実で、これから育つ新しい日本文化には是非期待したいと思う今日この頃。

・・・だいたい、日本のしきたりとか言われているものや、神社の作法にも、割と新しいものも多いのだし。神道だって、今の形作られているあれは、結構新しいものでしょう。


いい意味で、日本的なよい文化が広まればいいけれど。


日本はハイブリッドなのだ。


DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?


日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)


でも大切にしたい古くからの価値観もあるよね。壊されなければいいけれど・・・。

ヤマアラシともぐらのジレンマ

鼻血が出た。


先週の週末ののことで、私にとって実に数十年ぶりの鼻血だった。
本当に久しぶりの鼻血だが、不思議なものであの鼻の中を「すー」とか「つー」とか流れるような、いわゆる“鼻血の予感”は、すぐにそれだとわかった。

覚えているものなのだな。
そんなに何度も鼻血を出すタイプでもなかったのに。


ぶつけたわけでもなく、のぼせたわけでもなく、チョコレートを食べたわけでもない。
どこか特別な場所に行ったわけでもない(一応)。
出血の原因に思い当たる節はない。


偶然だが同日、私の親類も鼻血が出したらしい。
上根一族は鼻血に呪われたか?
鼻血にご利益のある神社って、あったっけ?鼻つながりで、天狗にゆかりのある神社(武蔵第六天とか)とかがいいかな?


折しも漫画「美味しんぼ」で鼻血描写が話題になっている昨今。
鼻血の話題は出しにくい。

あちらの議論は非常に熱い。議論が熱すぎて怖い。
臆病な私はおいそれと近づけない。下手なことを言ってしまうと、クラレッタよろしくつるし上げられてしまうのではないか。


批判する側もされる側も、互いが正義感を背負っているのだから、コトは非常に複雑だと思う。
双方それぞれが正しい、困っている人を救いたいと思っているはずで、しかしだからこそ、お互いの主張を受け入れられない。


そこには分かりやすい勧善懲悪はない。


考えてみれば多くの社会的な問題は、完全に一方が悪というケースは少ないのだと思う。


フィンランドメソッドの北川達夫さんだか進研ゼミの山田ズーニーさんだか忘れたが、以前読んだ本にこんな事が書かれていた。

森を削って道路をつくる計画があったとする。 
反対派は、自然が壊される、環境が汚染される、本当に作る必要があるのか数字を出せ、と反対する。 
推進派は、道路により経済が活性化する、雇用も進む、人の生活あっての自然保護ではないか、物流だけでなく救急搬送など社会的な意味もある、と応戦する。



どっちかを完全に論破しての解決なんてないのではないか。


このような対立というのは、捕鯨の問題も、戦争の問題も、靖国神社参拝の問題も、いずれも同じようなところがあるのかもしれない。


どちらかが100パーセント善で、もう片方が完全に悪。そんなケースは珍しい。


それは、社会や国際問題だけではない。


神話や昔話だってそうかもしれない。


記紀神話に綴られている神武東征や、ヤマトタケルの活躍、スサノオの話も、そう。

もうしかしたら、退治された彼ら・・・→ 長脛彦やクマソタケルやヤマタノオロチにだって・・・戦うだけの理由があったのかもしれない。彼らが背負う正義があったのかもしれない。

というか、当然あっただろう。
勝てば官軍で、勝者の記した書は割り引いて見る必要はある。


公的な文書である記紀の話だけにとどまらない。

桃太郎や一寸法師といった馴染みの昔話だって同じかもしれない。鬼には鬼の正義があったのかもしれない。てことは、実は以前も書いたことがある。
節分に参加できずに考える正義と倫理の問題



前々から考えている、というか気になっているのは、

「正しいことならば、相手を傷つけてもいいのか」

ということ。


例えば、あの鼻血描写の問題でも、ずいぶんヒートアップしたやり取りがあったようだ。ジャーナリストが原作者をリンチしょうと呼びかけたというような事があったらしい。
「美味しんぼの件は、見せしめにぴったり。(略)祭りは『血祭り』の方が興奮するし。嫌いな人民裁判に、私も乗ろう。風評被害撲滅の大義のため」
「私は漫画という文化に敬意を持つが、社会に意味のない漫画なら見せしめのためにリンチをして、吊るし上げても、影響はないだろう。だから心置きなくリンチして木に貼付けにしてやりましょう」



まったくの推測で書くが、きっとこのジャーナリストは普段はいい人なのだと思う。正義感にあつい真面目な人なんだろう。人が怒るというのは、大抵の場合、その人が大切にしているもの(人、価値観、考え方、物など)が傷つけられるからで、このジャーナリスト氏にとって守りたい人たちがいたのだろうと思う(で、きっとそれは、今回の件で批判する側とされる側の双方が守りたいと思うものに、実は大きな違いはないんじゃないか・・・と思いたい)。


私もそうだが、自分が正しいと信じていることであると、相手を批判し、非難し、あるいは議論するにあたって、感情が先行して必要以上に攻撃的に、傷つける言動に出てしまうことがある。正義感によって失われる冷静さ。しかし、こうなってしまうと、場合によっては正義感は邪魔でしかない。


「正しいことならば、相手を傷つけてもいいのか」

悪は倒すか。懲らしめるか。
傷つけられて困っている人のために人を傷つけるのか。

これって、反戦主義者が暴力に訴えるような・・・いや、救急車が傷ついた人を急いで搬送するために次々と人を跳ねて進むようなものだ・・・いや違うか。


以前も書いたが、「ヤマアラシともぐらのジレンマ」という話がある。

<とても寒く厳しい冬。1匹のヤマアラシが、もぐらの家族を訪ねてこうお願いした。
「外にいたら死んでしまう。冬の間だけ一緒に洞穴の中にいさせてほしい」
もぐらの一家は、ヤマアラシの頼みを聞き入れました。けれども、その洞穴はとても狭いため、ヤマアラシが洞穴の中を動き回ると、その度にもぐらたちは針に引っ掻かれてしまう。
とうとう我慢できずに、もぐらたちはヤマアラシに洞穴から出て行ってくれるようにとお願いをする。
ところが、ヤマアラシはこのお願いを断り、こう言ったのです。

「ここにいるのが嫌なんだったら、君たちが出て行けばいいじゃないか。」>

普通に読めばヤマアラシにムカっとくる話だ。
よし。ヤマアラシさんをたたき出すか。

しかしこれは、倫理と道徳を考える思考実験だ。


ここで考えたいのは“どちらが正しいか”という問題ではない。もっと別の何かだ。


A + B =A&B ?
このまま一緒に暮らすのは無理だ。
もぐらさんが傷ついてしまう。

では・・・

A + B =AorB ?
どちらかが出て行くのか?

それしか解決策はないのか?


しかし今ここで求めたいのは新しいソリューションだ。
A + B =C

AでもBでもない、Cという新しいソリューション。そういった考えを導き出せるチカラが求められている気がする。

何が考えられるか。
何を考えることができるのか。


どちらが正しいのか間違っているのか、という正義の問題ではない。


久しぶりに鼻血を出したことで、タイミングがタイミングだっただけに、色々と考えすぎたようだ。やっぱりのぼせているのかもしれない。










鬼ヶ島には悪い鬼がいるらしい。

悪い鬼?じゃあ、いい鬼もいるのか?

それはわからない。

彼らの素性、生態などについては分からないことが多い。


しかし、聞くところによると人々を襲うらしい。

てことは、悪い奴だな。

よし。退治するか。

人々を襲う鬼を、俺が襲ってやる。

しかし、実査に見てみると、裸に虎のパンツ一丁なんて、実に質素じゃないか。

綺麗に着飾っている貴族様とは大違いだな。・・・(未完)



ところで最近流れているペプシの桃太郎のCMが斬新。

魔王とクラレッタのスカート

個人ではどうしようもない時代の大きな流れというのがあるかもしれない。

自分の思うことと異なる大きな流れが押し寄せた時、私は水に流されないでいられるだろうか?


小説「魔王」の中のエピソードとして、「クラレッタのスカート」という話が出てくる。


魔王 (講談社文庫)

クラレッタは、イタリアの独裁者でファシストの創始者と言われるムッソリーニの愛人。
ムッソリーニと愛人クラレッタは、広場で処刑されることになる。

2人は処刑され、民衆が囲む広場にその遺体は引きずりだされ、逆さづりにされる。

その時、逆さづりにされたクラレッタのスカートがめくれてしまう。それを見て群衆に笑い声がおこり、中には卑猥な声や罵声を浴びせかける者もいた。

その時。1人の男性が群衆のなかから足を踏み出した。そのまま淡々と進み、梯子をのぼり、クラレッタのスカートを直す。

下手をすると、興奮した群衆に殺されかねない行動だった。

この「クラレッタのスカート」の話を引き合いに、この小説の主人公はこう言う。

「恐怖とか、まわりの雰囲気に負けたくない。馬鹿でかい規模の洪水が起きた時、俺はそれでも、水に流されないで、立ちつくす1本の木になりたいんだよ」


いや~私にはきっと無理だろう。
流木になるどころか、流されまくって翻弄され、途中でどっかに埋もれてしまう小枝程度じゃないか。

つくづく、嫌な時代にはならないでもらいたいものだ。


日本の歴史の中で、このような“馬鹿でかい洪水―雰囲気という名の”が起こったのって、私の思いつくところで言うと、「廃仏毀釈」と「戦争前後の様々なコト」あたりではないだろうか。

特に廃仏毀釈は坊さんまでが進んで仏像を破棄した例もあり、また仏教だけでなく、様々な民間のカミもその対象となってしまった。土着の古くからのカミでも、記紀神話につらなる神道の系譜から外れる神は、その対象となってしまった。神社でも祭神や御神体の交代が起こり、それ以前と以後に大きな断絶が起こるに至った。


しかし、日本人というのはたいしたもので、暴走する人がでる一方、その大きな流れに流されない立派な人というのも何人もいる。
クラレッタスカートをなおせる人だ。

廃仏毀釈の流れの中でも、戦時の時でも、そんな人が一定の割合でいる。


立派だ。
そんな人になりたいものだ。


ところでこの本(↓)は必読だと思う。
でないと、また日本は敗れるかもしれない。色々な意味で。
右でも左でもなく、ただの悪人をのさばらせることはできない。



日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)

2014年5月1日木曜日

咳の病と、子どもの病気に効く神様

少し前に、熊本県で鳥インフル発生とニュースになった。

日本国内での鳥インフル確認は、確か東日本大震災があった年以来だと思う。
鳥インフルは言葉通り鳥が感染するインフルエンザであり、人間が感染するインフルエンザとは異なる。しかし、マレに人にも感染することがあるらしく、というか人間の感染するインフルエンザは鳥や豚など動物のインフルエンザが変異したものであるため、鳥のインフルエンザが発生するたびに警戒されることになる。ひとたび人に感染するウイルスに変異してしまえば、それは人間にとって未知のウイルス=新型インフルエンザとなる。抗体のない人類は感染拡大の脅威に直面する。

鳥のインフルエンザは、強毒型という症状の重いものから軽いものまで幾つかの種類がある。症状の軽いものは人間が感染しても通常のインフルと変わらないが、症状の重いものだと致死率6割以上というものまである。

鳥から人への感染がマレだとはいえ、人とウイルスの接触回数が増えるということは変異の機会が増えるということだから、厳重な警戒が必要となる。

私は鶏肉と玉子料理が大好きなので、このような騒動は困る。十分な加熱処理をすれば問題ないはずで、私も相変わらず鳥料理を食しているが、馴染みの飲食店に影響が出ないかと心配だ。


鳥インフルエンザとは別に、今、中東の方で懸念されているのはMERSコロナウイルスだ。致死率30%とも言われている。
1~2年前からサウジアラビア国内で警戒されいたこの新種のウイルスは、10年ほど前に中国を中心に世界中で猛威を見せたSARS(サーズ)と類似したウイルスだ。

世界中で、今もっとも感染拡大が心配されている感染症の1つだと思う。


インフルエンザにしろマーズコロナウイルスにしろ、どちらも高熱や呼吸器の炎症、肺炎のような症状が出る。

咳の病だ。

毎年流行する季節性のインフルエンザとは異なり、場合によっては致死率がふた桁レベルに達し、人々を襲う。
これらの新種のウイルスは、人の流れとともに広がる。
第一次世界大戦の時に、戦争による人の流れとともに世界中に拡散したスペイン風邪は、感染者6億人、死者は5000万人に達し、戦争以上の死者を出した。


グローバル化だとか言っている現代では、一度新しいウイルスが誕生したら、瞬く間に世界中に広がるだろう。

無論、このような感染症の流行は現代だけに限らず、過去にも何度もあったはずだ。


咳のカミさま、というのがある。

このカミさまは決まって私たちに身近な存在であり、むかしからアチコチにいらっしゃった。
やはり、こういった感染性の病の流行は、今と比べ物にならないくらいの切実なる恐怖だったんだろう。

そういった病の魔の手から助けてくれるカミさまだ。


東京都内にも、有名な咳のカミさまがいる。

例えば、墨田区の弘福寺というお寺の、爺婆尊。爺さんと婆さんの2体の石像だ。頼むと咳の病に効くという。

もともとは大名の屋敷にあったもので、百日咳で難儀する児童の親は、門番に頼んで拝みに入れてもらっていたという。
願掛けの仕方も変わっていて、こんな感じだ。

まず、必要なのは豆や霰餅の炒ったもの。これを煎じ茶とともに備える。
そして、始めに婆様に咳を治してくださいと頼み、次に爺様に「おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んできましたが、どうも婆どのの手際では覚束無い。何分御前様にもよろしく願いまする」
そう頼んで帰ると、殊更よく全快するという。


江戸の頃には、なぜだか爺婆は仲が悪いとされていて、並べると必ず片方が倒されるということから、両者は離れて置かれていた。しかし今ではそんなことはなく、仲良く並んでいる。今では咳に効くという生姜の飴も売られているので、そう高くもないものなので試してみるのもいいかもしれない。

こういった咳に効くカミさまは、なぜだか「咳のおば様」だとか「しわぶき婆」、「姥神」だとか呼ばれて、各地にある。

例えば、私の住む川口市には私が把握しているだけで、3箇所に「咳のおば様」がいらっしゃる。西新井宿の姥神様、芝のしゃびき地蔵、慈林のばん神さま。それぞれ呼び名は異なるが、いずれも咳の病に効くという。私の知るだけで3箇所なのだから、実際にはもっとあるのかもしれない。で、1つの市内でこれだけあるのだから、全国各地にあるに違いない。


ところで、なぜこのカミさまは咳のカミさまとなったのか。
大抵の場合、このカミさまは婆さんである。

婆さんのカミさまが咳に効くカミさまへと至った訳としては、こんなことが言われている。

「咳の病を治してくれる神「咳婆(シャビキサマ)」は、もともと関の姥神であった。だからセキババは村の辻や山の峠、橋畔などに祀られ境を守る神であった。その関が咳に通じるところから、人の咳の病ばかり祈るようになった。」


関所の関ということで、村境などに祀られ、塞神(さえのかみ=道祖神)の「さえ」=塞(ふさ)ぐも同じではないかと言われている。セキという音が、咳に通じるという日本によくあるダジャレのようなパターンだが、こうした信仰が良くない風邪の病などが流行った時から広がったのではないかと思う。

私などは単に塞や関という意味以外に、石神の石の意もあったのではないかと思うのだが、しかし、単に音が似ているというだけでそう信仰され始めたのではなく、もともと姥神にそう信仰される下地があったのではないかと思われる。


では、姥神とは何か。

姥神と呼ばれるカミさまは、よく井の上、池の岸、泉のほとりなどに祀られていることが多い。咳に効く、とされない場合の「姥神様」でも、水と関連する場所などに多く存在している。例えば有名どころであれば浅草の近く。かつて姥が淵という池があり、悲しくも残酷な説話が残されている。石枕、一ツ家の伝説と呼ばれる話だ。

お話は浅草寺草創の頃のこと。浅茅ケ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。道行く旅人に一夜の宿をかしては夜な夜な寝静まりに旅人の首を落す。そして身ぐるみはぎ取ってしまう。殺された人999人。これをみた浅草観音は若衆に変身して老女の一軒家に泊る。老女は例によって旅人をしとめるがあけてみてびっくり。殺したのは旅人にあらずしてわが娘なり、老女は大いになげき苦しんだ。千人目のお客で彼女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。この池を後世、姥ケ池というようになった。(台東区)


他にも各地に姥神もしくは類似する話が残っていて、「咳のおば様」の例として前述した西新井宿の姥神様も、もとは姥が池と呼ばれる池に由来する説話を持っている。いずれも水辺が近くにあり、悲しい話がついてまわる。

この姥神とは一体なんだろう?

これを考える上で参考になるのは、各地に伝わる大師講の説話である。
お大師様、つまり弘法大師(空海)が各地をまわり、杖でつついたりして水が湧き出るという類の伝説だが、「きっと近くの村にこういう言伝えがあって、それにはいつでも女が出てきます。その女がほんとうは関の姥様であったのであります」(柳田国男)という。

どういうことか。
端折って説明すると、「だいし様」と読んでいたのを文字を知る人たちが弘法大師と思うようになった。もとは「だいし」に漢字をあてるとしたら「大子」と書くのが正しく、これは「おおご」と言って、大きな子。すなわち長男という意味であった。この大子は児の神(神の子)であり、姥神は御母、御叔母といったような大子と親しみのある関係であった。

大子はその字や音から、時代とともに聖徳太子や弘法大師などへと移り、姥神も「うば」=女のことであったものを、老女のように考え出し、仏教の普及とともに奪衣婆、山姥などのイメージがついていった。しかし、双方とも決して新しい神ではなく、相当に古いカミなのではないか・・・と言われている。

確かに、姥神(咳のおば様)の多くは単に咳の病に効くだけでなく、子供の病に効くという話がセットになっている。

姥神とは子どもを愛するカミなのだ。


ところで、何故「うば」ガミと呼ぶのか。
これは私の想像だが、もともとは「産神(ウブガミ)」から来たのではないか。
産神とは出産の神とされ、箒神をそう呼んだり、また産土神(うぶすなかみ・・・土地の神として祀られている)と関連があるとされている。

この「うぶ(おぶ)」とは「たましい」と同じ意味だと思われる。

かつて海辺の村ではお産のたびに海近くに産(うぶ)小屋(産屋)を立て、その下には砂を敷いた。この砂をウブスナと言うのではないかとの話もある。

ともかく、姥神が水辺にいること、子の神との関連があり、更には子どもを愛する神であること。「うぶ」と「うば」の音の近さなどから考え、そこから姥神となってのではないか、と思える。


子どもな7つまでは神のうちと言われ、昔は生き延びるのも大変だった。タチの悪い流行病などが出ると、それを乗り切るのも運次第だったろうと思う。流行病はいつも境界の向こう側、他所の地域から入り込んでくる。だからこそ、その境界を「関の姥神様」に守ってもらう必要もあったのだろう。

姥神様はとても身近な場所にひっそりといて、そしていつでも子ども達を見守ってくれている。



今また鳥インフルエンザやMERSコロナウイルスという、油断ならない病気が影をチラつかせている。
神頼みとともに、最新の予防医療の力と、身近な感染症予防の知識で「いざ」を乗り切ろうではないか。


人体に危ない細菌・ウイルス 食中毒・院内感染・感染症の話 (PHPサイエンス・ワールド新書)

マスメディアが報じない 新型インフルエンザの真実 (中公新書ラクレ)

【参考】
日本の伝説 (新潮文庫 や 15-2)
日本の神々 (岩波新書)
埼玉県伝説集成―分類と解説 (1974年)

2014年4月28日月曜日

こけしの由来と、名前の意味

少し前に、(別の)ブログで「聖(日知り)とてるてる坊主の末路」という記事を書いた。

てるてる坊主は雨ざらしにされ、人々の願いを一身に背負い、雨が止まねば首をチョン切られてしまう悲しい存在。
見た目は可愛いてるてる坊主だけれど、見方によっては違った側面が見えてくる。

私たちの日常の、割と近くに存在しながら、しかしよくよく考えてみると何だか理不尽な、あるいはゾッとするような習わしが割とある。

そしてそれらは何故か、いつも子どもたちの近くにある。

例えば、「とおりゃんせ」。
例えば、「かごめかごめ」。

たとえば、「こけし」。



「こけし」は子供顔の頭部と、円柱の胴体で構成された木の人形で、東北地方に多い。昔は一家に1つくらいはあったのではないか。日本の代表的な人形といっていいと思う。

しかし、よくよく考えてみれば「こけし」のカタチは手足がなく非常に特徴的だし、そもそも何故「こけし」と呼ぶのか?

この名称は、考えてみれば不思議で、一体どのように付けられたのか。

「こ」と「け」と「し」。

由来は何か?


調べてみると、<「こけし」とは、「子消し」である>という説が出てきた。
どういうことか?

つまり口減らしや堕胎によって亡くなってしまった子供の供養としての「子化身」・・・こけしである・・・・・・、という説である。

何とも恐ろしい話だ。
姥捨て山とは反対で、それの子供版か・・・。

子供を消すから、「子消し(こけし)」。
消された子供を供養するために、子の化身として木の人形である「子化身(こけし)」をつくる。


いかにもありそうな話だ。


しかし・・・。


「こけし」は「子消し」である。こう書くと字面から言っても最もな理由のように感じるが、実はこの説には根拠がないという。ウィキペディアによると、この説の提唱者は民俗学に通じているわけでもなく、この説が提唱される以前には、それを裏付ける文献等もないという。

そもそも「こけし」という名称も、実はある狭い地域で命名されていたものであり、同じ「こけし人形」でも、地域によっては「きぼこ」「こげし」「でく」など様々な名称で呼ばれていたという。そのうち「こけし」という名称が代表的なものとして広まった。

口減らしの供養のために作られた「子消し」の存在の、可能性自体は否定しない。しかし、「子消し」が「こけし」そのものの由来であるとするのは無さそうだ。

では、なぜ「子消し」説が流通したかというと、「こけし」という名称から、さもありそうな字面だから・・・ではないだろうか?

こけし → 子消し

語呂があっているというか、字面があっているというか、何となく納得してしまう。

昔のコミュニケーションの主体は話言葉だったのだけど、文字が流通するようになると、文字の影響を受けて本来の意味が変わってきてしまう、というのはよくあることだ。音の響きに漢字を当てられると、その漢字の持つ意味の影響を受けるようになる。


地名や人の名前、物の名称などもそうで、大抵の場合、綺麗で良い印象の文字を当てようとする。

例えば東京の某所に「鶴前橋」という橋があるのだけれど、今度新しく橋をかけ変えることになり、その名称が「鶴舞橋」となるらしい。

このように徐々に名称が変わってしまったり、その文字から新しい何かがイメージされてしまったり、似た名称から影響を受けたり、という事が、実は結構あるのではないか。

特に口承で伝わってきたもの、たとえば昔話や地名には、そのような影響を受けるモノが多いのではないかと感じる。


特に地名。
地名にはマイナス要素(例えば湿地や災害由来など)が含まれている場合があるが、そんな意味が含まれていると、不動産売買に支障が出る。ゆえに、良いイメージのものに改名されたりすることが結構多い。何とかの園とか、何とかヶ丘とかはほとんどそんな裏事情があるのではないか?新駅が作られる時の駅名も同様である。



美しい名称をつけて、それの価値をあげようという目論見があると邪推する。


それとは反対に、名前の意味が忘れられて、それ自体の存在も消えてしまう場合がある。


例えば、私の住む川口市に道合(みちあい)という場所がある。
ここの、とある場所にはかつて庄陣場という名前の清らかな池があったそうで、この池は近くの農民たちからとても大切にされていたそうだ。「この池を粗末にすると“たたり”がある」とされていた。そして、この池は地元に伝わる説話の舞台にもなっていた。

しかし、「庄陣場」とは一体何か?
思うに、もともとは「精進場」だったのではないか、と推測する。
精進場とは禊を行う場所であり、同じく精進場と呼ばれる池は全国にいくつかあるようだ。

禊をするということは、宗教的な行為をするだけの聖域のような場所が近くにあったはずで、それゆえに「この池を粗末にすると“たたり”がある」とされていたのではないかと思うのだが、「庄陣場」では意味が通らない。本来の伝承では近くに塚などもあったようだが、池も塚も、現在では消滅してしまっている。同時に、そこに付随していた説話も消えかけている。恐らく近い将来、忘れ去られるだろう。


間違って意味が付帯されて広がるものもあれば、意図的に意味をすり替えようという場合もある、一方で、意味が失われて存在自体が忘れ去られていくものもある。
名前とは不思議だ。


あなたが住んでいる地元の、目立たない地名なんかに気をつけて欲しい。


バス停の名前、橋の名称、小さな神社の名前。
誰にも気づかれていないが、もしかしたら貴重な物語を宿しているかもしれない。
気づかれるのを待っているのかもしれない。



地名は災害を警告する ~由来を知り わが身を守る (tanQブックス)



誰かに教えたくなる「社名」の由来 (講談社+α文庫)



こけし てづくり手帖 (レディブティックシリーズno.3722)



2014年3月26日水曜日

再生エネルギーと、アマテラス。

石油は、現代の私たちにとって必要不可欠なシロモノだ。これを使いすぎていることによって、地球温暖化だとかいろいろ言われている。

さて、ここで質問です。

「人類が始まって以来、我々は石油をどれくらい使ったでしょうか?富士山の容量をバケツ1杯として答えてください。」


回答は意外だった。
答えはこちら。


ところで今、太陽光エネルギーがブームのようだ。

資産家や、地方の土地持ちの人たちのところには、複数の会社からソーラーやらないか、土地を貸してくれないか、という誘いの声がかかっているらしい。

今なら高額で太陽光エネルギーを買い取ってくれる、らしい。
さらに、グリーン投資減税で一括償却できるという、よくわからないけどお金持ちや企業にとって嬉しい仕組み。


太陽の光をエネルギーに変える。
その発想はとてもいいと思うが、何やらバブルの臭いも微かに漂う。

制度に問題はありそうだけど、何度も言うが、太陽の光をエネルギーに変えるという発想はとても良いと思う。
ちなみに先ほどのクイズを出されていたリンク先の先生は、光触媒という、これまた太陽光を活用した技術を発見した先生だ。光触媒も、酸化チタンに太陽光を当てることによって、抗菌作用や待機浄化などの作用を起こすことができるというもの(らしい)で、日本で生まれた技術だ。


いいじゃないですか。
太陽の活用。

なんせ、私たち日本は、日のもと。日の昇る国ですよ。
日本の総氏神は、伊勢神宮・日の光をあまねく照らす、天照大神(アマテラス)なのだから。


ところで、アマテラスといえば皇祖神、国を代表する神として有名だけれど、実はもともと地方神であったという話は、意外と知られていない。

最近のニュースによると天皇、皇后両陛下が式年遷宮があった伊勢神宮を参拝されたとのこと。しかし、これは現代になってからのことで、かつては古代より、天皇家が伊勢神宮に公式参拝されたことはなかった。参拝は明治天皇になってからのこと。

祖神(先祖神)なのにおかしい、というのは誰もが持つ印象だと思うけれど、その理由はというと、ようするに元々はアマテラスは地方の神だったから、というもの。

直木孝次郎氏がこの問題で「日の神をまつる地方神の社であった伊勢神宮が皇室の氏神社の地位にのぼったのは奈良時代初期前後である」という見解を発表して広い支持を得たのはすでに四十年以上前のことで、その後この説はほぼ通説として定着している。

ということで、アマテラス以前はタカミムスヒ― 高御産巣日神(高皇産霊神)が皇祖神であった、その理由と背景とは・・・ということが書かれているのが、この本。


アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)
先ほどの直木孝次郎氏の引用も、この本のP78に書かれている。

アマテラスは元々皇祖神ではなく、地方の神だったというのは通説になっているにも関わらず、あまり一般に知られていないと思う。
私もこの本を読むまで知らなかった。


伊勢神宮やアマテラスをめぐっては、色々な謎や憶測が囁かれている。例えば、

・記紀神話のなかで、時にアマテラスは男神のような描写がある・・・といったアマテラス男神説
・既出だが、なぜ天皇家は先祖神にも関わらず、伊勢神宮に参拝しなかったのか
・なぜ先祖神を、遠く伊勢の地に祀ったのか

などなど。

「アマテラスの誕生」を読むと、これらの謎が氷解していく。

タカミムスヒが元の先祖神だったとすると、わかりやすい。

日本古代では、他の国々とは違い、王(天皇)が自ら先祖神を祭ったことはなかったと長い間言われてきた。しかしそれは、アマテラスを先祖神とした場合のことであって、タカミムスヒは年二回、天皇が自ら祭っていたのである。それが「月次祭」である。(P70)

月次祭(つきなみのまつり)とは律令によると6月と12月の年2回行われていた国家的祭祀だが、字のとおり、元々は毎月行われていたのだろうとされている(本居宣長)。

さらにタカミムスヒは普段どこで祀られているかというと、宮中の八神殿という神殿で、専属の大御神巫 によって常時手厚く祀られていたという。


それだけの地位にあったタカミムスヒだが、一般的にはあまり知られていない。が、私にとっては個人的に、身近に感じていた神だった。というのも、第六天について調べていた時、都内のいくつかの神社で、御祭神を第六天から高木の神に変えていたからで、高木の神とはタカミムスヒの別称。なぜ第六天が高木の神に、という謎はまた別の機会にゆずるとして、そんな経緯もあって高木の神については関心を持っていた。

それがまさか天皇家の祖神だった経歴があろうとは。

この本は硬派なわりに読みやすく、何より面白いのでオススメだ。
・アマテラスはどのような神だったのか
・4~5世紀の日本と周辺国との状況はどんなだったか
・タカミムスヒとはどんな神か
・日本の氏族についての考察
・ついでに、国譲りをした大国主とはどんな神なのか
などなど、興味のつきない内容となっている。


しかし、当初はタカミムスヒが天皇家の祖神だとしても、我々にとってアマテラスは長く親しみのある神である。しかも、祖神になる以前、アマテラスが天照大神ではなくオオヒルメだった頃から広く日本人(?)に親しまれていたカミであり、弥生時代から続く古く歴史のある土着のカミである。

そんな日のもとの国なのだから、太陽光エネルギーについては癒着や裏取引など間違ってもないよう、お天道様に恥じない仕組みで進めていってほしいものである。


ちなみに、冒頭のクイズ、リンク先を見れない人のために回答↓

Q.富士山と同じ大きさのバケツがあったとして。石油は、人類始まって以来、何杯使ったでしょうか?1杯、10杯、100杯、1000杯、1万杯?








A.答えは、
 1杯の半分。

意外と少ないと思いませんか?

2014年3月20日木曜日

雑感、ウクライナとルワンダと日本人

最近はなかなか時間がなくて、ブログの管理画面をあまりチェックできない。

管理画面を見ると、簡単なアクセス解析を見ることができる。昨日は何件のアクセスがあった、とか、どのページのアクセスが多いか、とか、簡単な内容だけど。

で、そのアクセス解析では、国別のアクセス数もわかるようになっている。



昨日、ウクライナから2件のアクセスがあった。


今話題のウクライナ。


当然、このブログのコンテンツに興味があってアクセスしたわけではない・・・だろうと思う。


海外からのアクセスは割とあって、例えば1日にロシアから100以上のアクセスがあったりする場合もある。素人なのでよくわからないが、多分、内容に興味があって見に来ているわけではなくて、ロボットだとか広告だとかで機械的にアクセスがあるんだろうと推測している。
そりゃそうだ。ロシアの人に1日限定で興味を持たれる理由なんてない。


にしても、ウクライナかー。

今、大変だよね、ウクライナ。


今までは西側サイドの情報ばかりしか流れてこなかったけど、今は東側サイドの情報も、少しではあるが流れる。イラクの大量破壊兵器の件や、北アフリカ・アラブの春などの一連の情報を見ていると、どっちが悪いのか何なのか、よくわからなくなってくる。


政府は必ず嘘をつく アメリカの「失われた10年」が私たちに警告すること 角川SSC新書

要するに勧善懲悪、どちらかが一方的に悪いなんてことは、少なくとも国際政治の中にはないんだろうな、と、当たり前のことながら思う。今更だけど。


90年代に、ルワンダでジェノサイドが発生した。
ジェノサイドとは、1つの民族や人種などを抹殺する虐殺行為を言う。

特にルワンダのそれは、遠い過去のことではなく、割と最近に起こったことだ。映画などにも取り上げられているので、知っている人も多いと思う。




ルワンダの虐殺を簡単に説明すると、多数派のフツ族が、少数派のツチ族を虐殺した(穏健派のフツ族も含まれる)という民族紛争なのだが、ではこの2つの民族は何が異なるのかというと、実は何も異ならない。言語も同じ、宗教も同じ。かつての植民地政策のなかで、人工的に分けられたと言われている。

隣近所の住んでいた、ほぼ同じ民族が、やがて壮絶に殺し合うというのは何とも恐ろしい事態である。国連も、世界の警察たるアメリカも、このジェノサイドでは無力、というか、無関心ですらあった。

「虐殺したフツ族ってーのはひどい民族だな!」

とは思うが、事はそう単純なものでもないのかもしれない。投資家の橘氏のコラム「“悲惨な現場”を求めるNGOの活動がアフリカで招いた不都合な真実」は必読だと思う。


何故にここまで話がこじれるのか。人間のダークサイド。負の一面。若くして病に倒れた故・伊藤計劃氏のSF小説の中に、「虐殺の文法」というのが出てくる。この文法を駆使することで、人工的に虐殺を発生させるという話なのだが、本当に、人間にはどこかにそういうスイッチのようなものでもあるんじゃないかと疑りたくなる。特に、ここ最近の民族意識の世界的な高まりを見ていると、余計に・・・。


虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)


まぁ、難しい時代ですよ。

私たち日本人は、この揺れ動く時代をどのように生きるのか。
かつて山本七平さんが、このように書いていた。

「日本人は東アジアの最後進民族です。(中略)当時(縄文後期)の中国と日本とを比較した人がいたとしたら、その文化格差は、まさに絶望的懸隔と見えたでしょう。常にそう見られて不思議でない民族なんです。それが何かの刺激で恐ろしいばかりの速度で駆け出すというだけです。いわば人類史を駆け抜けてきた民族なんです。」
日本人とは何か。―神話の世界から近代まで、その行動原理を探る (NON SELECT)


民族意識の高まりに警鐘を鳴らしたあとに民族意識を煽るのか、と思われるかもしれないが、そうではない。私達が今持つ、世界から絶賛される良い側面を失わず、世界に広められることを期待したいのである。この誇りは捨て去らないで欲しい。


ぜひ、良い方向に。

2014年3月14日金曜日

スーパードクターの縁切榎と飛不動。ご近所にはホームドクターを。

昨日のブログで「悪縁を切る方法」ということで、板橋の縁切榎(えんきりえのき)について書いた。

榎の木というのは夏の木と書いて表す。縁切榎も、かつて板橋宿として賑わった中山道で、夏の日差しを避ける絶好の木陰を提供していたはず。人々の集まる木だったんじゃないかと想像する。

縁切榎が切ってくれる悪縁は、夫婦恋人や隣人などの人間関係だけにとどまらない。

病気やお酒(禁酒)との関係も断ってくれると信奉されていた。
現在の縁切榎の絵馬にも、病気との悪縁を切ってくれるよう願うものもあった。


病気との縁を切るというと、以前紹介した台東区竜泉にある「飛不動」も似たようなご利益がある。

飛不動は飛ぶお不動さんと称されていて、かつて大峯山(奈良県)から空をぶっ飛び、一夜にして江戸の地まで舞い戻ってきたという伝承を持つ。
ゆえに、旅の守護の他に飛行護として航空関係者や、小惑星探査機「はやぶさ」の関係者に信奉されている。さらにゴルフ護、「落ない」で受験祈願としても人気があるのだが、悪い病を“飛ばしてくれる”という事でも信奉されていたらしい。

縁切榎で悪い病気と縁を切り、飛不動で縁を切った病を飛ばしてもらう、というコースで参拝するのはどうだろう?

電車で回るとしたら、こんな感じになる。

縁切榎から徒歩5分くらい
↓
都営三田線「板橋本町」
↓
「巣鴨」下車
↓
JR山手線「巣鴨」
↓
「上野」下車
↓
日比谷線「上野」
↓
「三ノ輪」下車
↓
三ノ輪から徒歩10分前後

電車の移動が約40分、参拝時間が各10分として、約1時間30分のコースかな。

神仏というのは色々なご利益があって、病気についても、わりと専門が分かれていたりする。現代の医学でいうところの専門医みたいなものだ。


例えば私の地元、埼玉川口でいえば、氷川神社は祭神が素戔嗚尊(スサノオ)なので、総合医。
で、足の怪我なら新井宿の子日神社。
歯痛なら、前川の愛宕さま。
咳(特に小児科)なら、西新井宿の姥神さま。
頭痛なら道合の浅間社(現在入れず)。
腹痛なら一本木の諏訪神社。
出産なら元郷氷川。柳崎にも子安観音が。
女性の性病なら石神妙延寺のお女郎さま。
眼病なら・・・

と、ここでは書ききれないほど、いろいろある。

川口市という特段寺社の多くもない場所でこれなのだから、各地にもたくさんあるのだと思う。

大きな有名神社に行くのもよいけれど、ほら、医療の世界でもよく言われるでしょう。頼れるホームドクターを持ちましょう、と。近場で主治医を見つけて、難しい病気の場合はそこから紹介状を出してもらって、別の専門医に診てもらう。

寺社仏閣も似たように、

「すいません、ちょっと足の怪我が尋常じゃないので・・・。
 何だか切ったり飛ばしたりっていう特殊な専門療法を持つ、縁切榎の大六天さまと飛不動という方がいるって聞いて・・・。
 もしご存知のようでしたら、ひと言、ご紹介いただけると心強いっす」

てな感じで妄想紹介状をもらって行くと良いのではないか、と。

2014年3月13日木曜日

悪縁を切る方法・・・どうしても離れたい人のために。

どうしても離れたい人がいる。
そういう人には、縁切榎をご紹介したい。


ここ数年、ストーカー殺人などの嫌な事件をたびたび目にする。
別れたいのにしつこく付きまとう。
挙げ句の果ては、凶行に及ぶ。
被害者や遺族の気持ちを思うと、まったくやるせない。


ストーカーに限らず、悪縁というのは色々とあるものだ。


人という字は人と人とが支えあって・・・なんて言われる通り、人は人との関係性なしには生きられない。

同じクラスの嫌な奴。
意地悪なご近所。
パワハラ上司。
DVを繰り返す配偶者。

社会に生きていれば、離れたくても簡単に離れることもできない。

色々と手を尽くして、最後にすがるのは、カミだ。


そう。
古来から伝わる最後の手段。
奥の手。
これを人は、神頼みという。

縁切榎は東京の板橋区にある。駅なら都営三田線の板橋本町駅から徒歩5~6分。中山道の、たぶんあそこは旧道かな。



とても狭い敷地で、境内は横に人2列になるとそれでいっぱい。

まず、目を引くのはこの狭い境内に大量の絵馬が奉納されているところ。
めちゃくちゃたくさんある。

内容を見てみると・・・正直、怖くなる。
実名で書いてあることが多く、「この●●に不幸が訪れ、私の目の前から消え失せますように」というような、隠そうともしないむき出しの恨みや呪詛が書き込まれている。

よほど縁を切りたいのだろう。

この縁切榎は良縁を結び、悪縁を断つということで、江戸の昔から信奉されていて、今だにテレビなどで紹介されることも多く、参拝者は結構多い。

実はここ、神社としては大六天神社である。大六天神社の御神木である榎の木が、縁切り榎というわけ。

もともとは江戸時代、旗本の近藤登之助の屋敷が向かいのあたりにあり、その垣根の際に榎と槻の古木があったそうだ。
その榎がいつの頃からか縁切り榎と呼ばれるようになり、嫁入りの際には縁起が悪いとこの下を通ることを敬遠されるようになった。将軍家へ嫁ぐような方も避けて通ったほどで、本当に広く話が伝わっていたのだと思う。

榎の木の皮を煎じて飲ませれば別れられるという俗信もあったようで、今の榎は削がれないように守られている。
ちなみに、今の榎は三代目で、先代榎は石に塗り込められている。

絵馬といい、埋め込まれた先代榎といい、何だか色々と異様な雰囲気を感じる社だ。

縁を切りたい。
その思いは、その願いを持つものにとって、本当に切なるものがあるのだろう。


ところで、世の中には「25人に1人、良心を持たない人がいる」と言われている。
25人に1人ということは、つまり4%だ。


良心を持たないというのは分かりにくいが、良心の呵責がないということだ。
つまり、人が傷つくことを平気でやれる人間。

自分の利が優先で、相手のことはかまわない。この“良心を持たない人”というのが攻撃的であった場合、いわゆる連続殺人犯となる。“良心を持たない”全ての人が殺人犯になるわけではないようで、表面上、普通に暮らして、殺しもせず、しかし人を傷つけて生きている。

良心の呵責がないのも当然だ。良心そのものがないのだから。


私たちの多くは、蚊を叩くのに躊躇しない。

しかし、もし仮に周りの目がそれを許さなかったら、少なくともひと目のある所では蚊を殺さないだろう。
犬将軍こと徳川綱吉の時代に犯罪率が低下して、更には犬を食べなくなったように、周囲の目というやつが抑止力として働くことがある。

それと同じことで、先ほど“良心をもたない人”は4%いると書いたが、これはアメリカでの数字。
日本では文化的に(おそらく、ムラ社会とか、周囲の目、空気とか、そのへんが原因?)それより大幅に少ないのではないかと言われている。

しかし、そういう種の人はいるわけで、しかもこいつらは表面上、魅力的に見えることが多いそうだ。なので、深い付き合いのない人から見るとその脅威が伝わらず、周囲の人になかなか理解してもらえないという。

もしこのような、手ごわい“良心を持たない”人間に出会ってしまった場合、どうするべきか。

この“良心のない人”について調べたマーサスタウト女史は、こう言っている。

「できるだけ遠くに、すぐに逃げろ」。

それしか方法はないらしい。

相手を変えるのは不可能。
周囲の理解や援助も難しい。
なので、逃げろ、と。
それしかない、と。

この「良心のない人」について知りたい人はマーサ スタウト女史の本が出ているので、興味のある人は読んでみるといいと思う。幸い、少し前に文庫で発売された。


良心をもたない人たち (草思社文庫)

まぁ、良心がない人とまではいかなくても、縁を切りたいという人はいるだろう。

縁を切るために、専門家の手を借りるなり、するべきことはしておくべきだ。
その上で、最後の最後には神頼み。
縁切り榎で願をかけよう。

ということで。

で、ようやくここからが私が一番興味のある部分なのだが・・・。
なぜ、縁切り榎の榎は「縁切り」となったのか。

先ほども書いたが、ここは大六天神社である。
大六天の神は、どちらかというと子孫繁栄に霊験ありのはずだ。
大六天と、「第」ではなく「大」とあることから、おそらく山倉山の大六天様だろう。
何かしらの願掛けをして、それが成就しての大六天神社だと推測する。

で、その大六天神社の、御神木ともいわれる榎の木。これが何故、縁切りの木になってしまったのか?

縁(えん)と榎、この関係は明白である(たぶん・・・(ーー;)わたし的には)。

つまり、榎→えのき→えんの木。
榎は縁の木と呼ばれることがある。

縁の木と、大六天。

これだけなら、どっからどう見ても子孫繁栄。どちらかというと、良縁の名所となるはず、と言うか、なるべきである。

ところが、なぜ縁は切られる方向に向いたのか?

元々屋敷のあったという近藤家に何かがあったのか?

今となってはわからない。

答えはわからないが、1つ参考にしたい話がある。
この板橋から少し離れた相模原(神奈川県)に、榎神社という社がある。

ここには照手姫伝説という話が伝わっている。

あらすじは、こうだ。

「ある時代・・・・この地に横山将監と言う豪族が住んでおり、照手姫はその娘として生まれ美女として誉れ高いお姫様だった。姫は美男で評判の小栗判官と恋仲になるが、皮肉な事に小栗は父の将監の敵方である。迷い悲しんだ末に、ついに姫は父を捨てて小栗のもとへ走ってしまう。しかし、戦国時代の武士の世界は厳しく、小栗判官によって姫の父親である将監とその横山一族は、滅ぼされてしまうのでした。照手姫伝説は、戦国の若い男女の悲恋物語で、恋愛は肉親の情をも断ち切る話として伝えられている。」
※照手姫伝説

榎神社の社名のいわれは、照手姫がさした杖が根付いたことからで、枝が下を向いた逆さ榎であったと伝えられている(現在の榎、こちらは二代目)。

さて、結論には至らないので保留だが、いちおう、現段階での私の見解。


板橋の縁切榎は、悪縁を断つ。
照手姫は、愛する人とは結ばれた(?)かもしれないが、悲劇の結末を迎え、肉親との縁は切られてしまう。
本来、縁の木ということで縁起の良い話につながりそうな榎に、こうした逆の話、つまり縁が切れる話があるのは、何故か?

それぞれの元となる古層の榎にまつわる説話でもあったのか、それとも「逆さ榎」で縁を逆にされた、とか?板橋の縁切り榎、初代は逆さ榎だったという可能性は、なくはない?