2014年3月14日金曜日

スーパードクターの縁切榎と飛不動。ご近所にはホームドクターを。

昨日のブログで「悪縁を切る方法」ということで、板橋の縁切榎(えんきりえのき)について書いた。

榎の木というのは夏の木と書いて表す。縁切榎も、かつて板橋宿として賑わった中山道で、夏の日差しを避ける絶好の木陰を提供していたはず。人々の集まる木だったんじゃないかと想像する。

縁切榎が切ってくれる悪縁は、夫婦恋人や隣人などの人間関係だけにとどまらない。

病気やお酒(禁酒)との関係も断ってくれると信奉されていた。
現在の縁切榎の絵馬にも、病気との悪縁を切ってくれるよう願うものもあった。


病気との縁を切るというと、以前紹介した台東区竜泉にある「飛不動」も似たようなご利益がある。

飛不動は飛ぶお不動さんと称されていて、かつて大峯山(奈良県)から空をぶっ飛び、一夜にして江戸の地まで舞い戻ってきたという伝承を持つ。
ゆえに、旅の守護の他に飛行護として航空関係者や、小惑星探査機「はやぶさ」の関係者に信奉されている。さらにゴルフ護、「落ない」で受験祈願としても人気があるのだが、悪い病を“飛ばしてくれる”という事でも信奉されていたらしい。

縁切榎で悪い病気と縁を切り、飛不動で縁を切った病を飛ばしてもらう、というコースで参拝するのはどうだろう?

電車で回るとしたら、こんな感じになる。

縁切榎から徒歩5分くらい

都営三田線「板橋本町」

「巣鴨」下車

JR山手線「巣鴨」

「上野」下車

日比谷線「上野」

「三ノ輪」下車

三ノ輪から徒歩10分前後

電車の移動が約40分、参拝時間が各10分として、約1時間30分のコースかな。

神仏というのは色々なご利益があって、病気についても、わりと専門が分かれていたりする。現代の医学でいうところの専門医みたいなものだ。


例えば私の地元、埼玉川口でいえば、氷川神社は祭神が素戔嗚尊(スサノオ)なので、総合医。
で、足の怪我なら新井宿の子日神社。
歯痛なら、前川の愛宕さま。
咳(特に小児科)なら、西新井宿の姥神さま。
頭痛なら道合の浅間社(現在入れず)。
腹痛なら一本木の諏訪神社。
出産なら元郷氷川。柳崎にも子安観音が。
女性の性病なら石神妙延寺のお女郎さま。
眼病なら・・・

と、ここでは書ききれないほど、いろいろある。

川口市という特段寺社の多くもない場所でこれなのだから、各地にもたくさんあるのだと思う。

大きな有名神社に行くのもよいけれど、ほら、医療の世界でもよく言われるでしょう。頼れるホームドクターを持ちましょう、と。近場で主治医を見つけて、難しい病気の場合はそこから紹介状を出してもらって、別の専門医に診てもらう。

寺社仏閣も似たように、

「すいません、ちょっと足の怪我が尋常じゃないので・・・。
 何だか切ったり飛ばしたりっていう特殊な専門療法を持つ、縁切榎の大六天さまと飛不動という方がいるって聞いて・・・。
 もしご存知のようでしたら、ひと言、ご紹介いただけると心強いっす」

てな感じで妄想紹介状をもらって行くと良いのではないか、と。

4 件のコメント:

  1. ほんのり梅酒2014年3月17日 12:10

    しかしいろんな神社がありますね。猫も杓子もといった感じですね。よくわからないんですが日本人て本当に神社やお寺の御利益を信じてるのかなぁ?合格祈願して落ちることだってあるだろうに。そういう時は腹が立ったりしないのでしょうか?僕はせいぜい年始のあいさつくらいしか行かないので年中行事の一つくらいの感覚なんです。それよりも余程初日の出の方が荘厳さもあいまって気合が入ります。同じ日本人として、多くの日本人がご利益があってもなくても神社・お寺に行くのが不思議です。江戸っ子なんか年がら年中あちこちの神社に詣でていたそうなので。何かこう祈りに必死さが感じられない。信仰じゃないですよね。あえて言うなら娯楽!日本人の宗教観は娯楽の要素が多分にあるんじゃないですかね?だからくそまじめなキリスト教やイスラム教が流行らなかった。こう思いますがどうでしょ?

    返信削除
  2. 娯楽! たしかにそんな気がします。

    江戸時代以降の檀家制度や、維新後の国家神道の成立等を見ていると、日本人にとっての宗教は個人の自由な信仰によるケースは少ないですよね。家や集落単位といった制限された枠組みのなかで、それでも多様な神仏(妖怪含め)が生まれてきたのは、ある意味すごい。日本人にとって宗教的なものは生活の中に、身近に組み込まれていたんじゃないかな、と思います。

    ご利益ですが、確かに縁起を担ぐレベルのものだったり、ご挨拶だったりというのは多いと思います。ですが、祈りの必死さについてですが、例えばお百度参りだったり、お遍路だったり、起請文の取り交わしだったりと、色々とレベルに合わせたコースもありますよ。

    物は言いよう考えいようだと思うのですが、規律の厳しさについても、中東の宗教やキリスト教なんかでも同じだと思います。最近読んでいる佐藤氏の本によると、イスラム教の世界では、売買春は死刑にあたる罪ですが、ロンドンにあるエスコートクラブでは「結婚あっせん所」という名目で宗教法人が経営していて、写真を見せて、「はい、この娘は結婚時間二時間、慰謝料は三万円」みたいなこともある、と。
    またお酒も禁止されているのですが、某国王族などは「コーランで禁止されているのはブドウからできたアルコール飲料で、ウイスキーはブドウを原料としないから問題ない」と平気で飲んで酔っ払っている、と。

    一方で、日本人にも一神教的な下地というのはあると思っていて、一向一揆、キリスト教禁制、戦前の新宗教弾圧など、その時々によって出鼻をくじかれている側面はあると思うのですが、それでも(あまりブログで書きたい内容ではないのですが)戦時中の陸軍の中には某仏教の影響が見られたりと・・・。


    寺社仏閣に詣でる日本人の多くは、自身が宗教的であると意識しているかというと、していないでしょうね。
    しかし、「信仰とは何か」という所に通じてくると思うのですが、習俗的でゆるいものは信仰に含まれるのか、含まれないのか、宗教ではないのか、と問われると、私は「信仰に含まれるし、宗教的である」と思うのです。ゆるいけど。

    ただ、ものすごく曖昧。形になっていない。仏教でもなく、神道でもなく、日本的な何か。これを形作ろうというチャレンジは、過去何度もトライされていて、古層探しや、維新後の国家神道もその1つではないかと思います。

    曖昧模糊、言語化されず、多くの人は意識せず考えず。ややもすると危険かな、と感じています。娯楽的であるうちが平和かなと思うのですが、いつか均衡が崩れやしないかと不安です。

    返信削除
  3. ほんのり梅酒2014年3月18日 19:39

    この日本人の曖昧さというか軽さというか。外来文化にしても平気で取り入れますが、すぐに飽きたりします。しかし滅ぼすまではしない。だから中国などではとっくになくなっている曲水の宴などの文化が今なお残っている。古代に百済が滅べば百済人を保護し、新羅が滅べば新羅人を住まわす。この寛容さ、人の好さは日本人が色濃く持っている特性だと思います。信仰もニーズに合わせていろいろ取りそろえる柔軟性。外人から見たら不思議でしょうね。でもそういうところがあるから偏らない。一時なったとしても長続きしない。それはいいとも言えるしよくないとも言えますね。好き好きですかね。かたや滅法律儀な所があるので、小さな約束に殉じてしまったりする。よくわからない国民性ですね。でも僕は好きですね。そういうところが。歴史を調べているのも過去の人たちが自分と変わらない感性や価値観を持っていろんなことやってたんだなぁと得心できるのが楽しくてやっているのかもしれません。偉大なこともばかなことも含めて。その意味でいま住んでいるこの地はまったく楽しい所だと思います。
    結局地元自慢になりました。では。

    返信削除
  4. 梅酒さんの地元愛は、ちょっと羨ましいです。私の場合、地元を調べてはいても、地元愛とはちょっと違うので・・・。むろん、嫌いではなく好きではあるんですが。

    私も、日本人の持つおおらかな一面は大好きです。
    後世の人たちも、もしかしたら地元の歴史に興味を持つ事があるかもしれないですよね。
    その時、今の私達の時代について調べた時に、同じようにいいなと、好きだと、誇りを持ってもらえるようになりたいですね。

    逆に、全然情報が残されていないーってのが一番残念です。
    だから、この時代の存在証明を刻め!ですよ。

    返信削除