2014年2月7日金曜日

女の髪を祀る毛長神社と毛長沼の謎

人の身体の部位において、古来より髪の毛と爪は不思議なものとして見られてきた。

髪と、爪。
この2つの部位は、目に見えて成長する部分である。

なので、髪と爪には霊力が宿ると見られていたし、だからこそ、呪いの作法においては髪や爪を対象者の代わりとして人形に埋め込んだりする。


この髪の毛にまつわる不思議な神社が埼玉県草加市にある。

毛長神社だ。

なんと、この神社の御神体は、髪の毛だ。

女の髪の毛。

しかも、その女は不幸な死に方をしている。

不幸な死に方をした女の髪の毛を祀る神社・・・。
なんとも不思議な感じがする。


尚、後述するが、現在では御神体の髪の毛は紛失してしまっている。


御神体が髪の毛だとすると、それでは何の神なのか。

毛長明神というところなのだろうが、もちろんそんな得体のしれない神を明治時代の宗教界に吹き荒れていた風潮が許すはずなく、祭神は大己貴命(おおなむち)に改められ、倉稲魂神・別雷槌神と併せて祀られている。

が、やはり毛長明神は毛長明神だろう。
本来の神は、髪を寄り代とするナニモノかのカミなのだろう。


髪の毛を埋めた髪塚などはあれど、髪を御神体にというのも珍しい。どのような経緯で、そんなことになったのか。ここには幾つかの由来が伝えられている。

先ほどチラリと書いたけれど、これはこの御神体(髪の毛)の持ち主である、とある女の不幸な死に方にまつわる話だ。


話の大筋を、これ以上ないくらい短縮して書いておこう。

「とある女がいた。不幸な理由により、沼で命を落とすことになる。後日、沼で髪が見つかる。死んだ女の髪だということで祭り上げた。」

これは、毛長神社の由来であるとともに、この地域に流れている毛長川(毛長沼)の名称の由来につながる話となっている。
とてもざっくりと書いてしまったが、この話には少なくとも5つ以上、類似した話が伝わっていて、それぞれが微妙に異なっている。(それぞれの話については、最後にまとめて紹介しようと思う)


例えば、女の素性については、次のとおり。
・万郷長者の娘
・万石長者の娘
・長者の娘
・醤油屋の娘
・素戔嗚尊の妹

亡くなった理由について。
・自然災害(万郷長者、万石長者)
・嫁ぎ先(もしくは、嫁ぐ直前)で不仲になり、沼に身を投げた(長者)
・土地の人々の難儀を救うために沼に身を投げた(醤油屋)
・悪者のために身ごもり、それをはかなんで沼に身を投げた(素戔嗚尊の妹)

髪の毛を発見し、祀ろうとした主体。
・村人(万郷長者、万石長者)
・遺族と村人
・太田道灌(素戔嗚尊の妹)


と、まぁ色々なバリエーションがある。
ちなみに、万郷長者・万石長者の話では、亡くなるのは娘だけではなく、一家全員である。一家全員が突然の-「急に黒雲が起こり、天地が鳴動し、つむじ風が起き、屋敷と家族が巻き上げられ沼に飛ばされて沈んでしまった」・・・というように、今の時代で言うなら竜巻のような自然現象にて全滅してしまうのである。

後日、数尺(1尺は約30cm。一説には六尺、つまり180cmとも)という長い髪が沼に漂い、まったく流れていかない。きっと長者一家の娘のものだろうということで、祀ったという。

嫁ぎ先で不仲になり、身を投げたという話の場合は、嫁いだ先は隣の村という設定だ。不仲になった理由は2通りあって、1つは嫁ぎ先の両親とそりが合わず、或いは赤ちゃんができず思い悩み、嫁ぎ先との関係が悪くなったというもの。もう1つは、女の出身の村(新里村)で疫病が流行り、それを嫌がられたというもの。

ちなみに、この女の出身はかつての新里村で、今の草加市新里町だが、相手の男の村は隣にある舎人村、今の足立区舎人である。
この2つの市区の境界となっているところに、毛長川が流れている。
この毛長川はかつて毛長沼といって、新編武蔵風土記稿によると11町以上の広さという大きな沼だったらしい。

ちなみに、毛長川は私の地元である川口市を水源とする川であり、また、見沼代用水(東縁)が行き着くあたりになっている。


この舎人には、舎人諏訪神社というのがある。

新編武蔵風土記では、

「舎人町に祀られている諏訪社を男神と称し、毛長明神社を女神と称する」

とある。風土記稿では“毛長”の女にまつわる話は書かれていない(神体が髪の毛というのは書かれている)のだが、風土記稿が書かれた1800年初期の時点で少なくとも、この2社を男・女の社として見ている点は興味深い。

なお、舎人諏訪社は鳥居からの参道に対し、神社は若干ずれた方向を向いて建てられている。その理由は、毛長神社に向けさせたためだという。つまり、夫(男神)に配慮したのだろうということだ。

しかし、この配慮説については、私はちょっと納得いかない。なぜなら女神は男神の方を向いていないし、男神が女神の方を向きたがる強い思いというのが、現在伝わっているところの話などからは見当たらないからだ。
風土記稿の伝えるところによると、この舎人諏訪社には、夫婦杉と呼ばれる2本の杉の木があったという。しかし、見沼代用水をつくるとき、この2本の杉の間に溝を引いてしまった。以来、土地の人は婚期を逃すということでこの道を避けるようになったという。思うに、この夫婦杉があり、そこから色々な話を取り込んで配慮説に発展したのではないか、という気がする。


と、色々なバージョンのある、この毛長神社である。

肝心の御神体がないというのは残念だ。
今の技術なら、髪の毛を分析し、時代やら人の特徴やらを解析できたかもしれないのに。

この御神体の紛失に関しては、2つの説がある。
1つは、別当である寺院の住職が持ち出してしまったというもの。何でも鎌倉に持ち出し、その地で毛長神社を建てたという。もう1つは、「このような不浄なモノを神体とするのはあるまじき事」として、沼に捨てられてしまったというもの。

なんてことしやがるんだ、と思う。


ともかく、この毛長神社(というか、毛長という名称自体)のいわれは、いずれにしろ、不可思議というか、すんなり納得しにくいものである。

女の、しかも不幸な死に方をした女の髪の毛を祀るという行為。
持ち去られた、或いは捨てられてしまった御神体(髪の毛)。

これだけ見ると、怨霊を恐れて祀られたようにも見えるのだが、それにしては祟り的な話はほとんど伝わらず(私の知っている範囲では、舎人側の方に1つだけある。→こちらのバージョンの話)、むしろ哀れんで、というか、大切にされている気すらする。

本来であれば小さな塚を築くか、供養塔を立てるか、あっても小祠程度なのが普通であると思うのだけれど、やがて村社にもなり現在にも残る、ある程度の規模の神社として今に残っている。この点も不思議に思う。

ここは私の想像だが、もともと、社すら建てられていないはるか昔に、何かしらの理由で女神を祭っていたのではないだろうか。そこに、本当に女の髪の毛なのかどうかわからないが、髪の毛(らしきもの)を女神のものとし、依り代とした。その後、長い月日を過ぎるうちに、自然災害で長者の家族が被害にあったり、或いはとなり村に嫁いだ娘が不幸な目にあったり、ということが起こった。やがてそれらの話は、口承されるうちに混ざり合い、現代へとつながってきたのではないか、と思うのである。

尚、毛長という名称については、次のような説もある。
毛(け)は新字源によると、草木・穀物などが生えるもの、或いは生えること、とある。「ぬ」は湿性、当て字として野や沼が当てられる。毛野川→鬼怒川と同じである。水気の多い水性植物の茂っている土地で、こういう水たまりを「ヌマ」と称した。「長」はものの形状を表す意であり、つまり毛長沼とは次のような意味ではないかという。

「水性植物の生えている長い沼」

漢字が当てられると、自ずと印象が付着する。
武蔵もそうだ。


と、しかし今に伝わるそれぞれの話が作り話とも思えず、何かしらの事実を元にしているのではないかと思う。それが毛長という名称、毛長神社とどのように絡まり、形成されてきたのか。とても興味深いところである。

現時点では、私の力ではこの辺が限界であり、引き続き、頭の片隅に置きつつ、本件は継続して調べてみたいと思う。

尚、以下に毛長神社にまつわる話のバリエーションを紹介します。

が、今これを書いていいる時点(2014.2.7)で疲れてしまったので、順次追記で書き足していく予定です。。。すみません。。

(追記2014.2.10)

【新編武蔵風土記稿】 

●新里村 毛長明神社
毛長沼の辺りにあり。沼を隔て、舎人町に祀れる諏訪社を男神と称し。当社を女神と称せり。古は髪毛を箱に納めて神体とせしが。何の頃にやかかる不浄の物を神体とするはあるまじきことなりとて。毛長沼に流し捨てしと言伝う。神号も是より起こりしにや。又毛長沼の辺に鎮座あるによるか。

●舎人町  諏訪社
西門寺の持なり。此社地に夫婦杉と唱へてニ樹ありしが。三沼代用水堀割の時。このニ樹の間に溝を開きしより。土人婚嫁の時前を過るはきらいしとて。此道を避けると云。此杉今は枯い。

【新里村毛長神社由緒・明治2】
字毛長沼之縁ニ建来候毛長明神之屋敷と申者、許万郷長者と申百姓之屋鋪也、此百姓之勧請し奉る毛長明神也、其家潰れニ付、其家大神宮稲此三神を祭、是則毛長三社大明神と号ス。
(以下、略)

【地誌材料稿・明治22】
(意訳)
当毛長神社は古い昔、毛長沼の辺りに万石長者なる者が住んでいたが、「或時俄然黒雲ヲ発シ、天地鳴動シ、暗黒トナリ咫尺弁ゼザル(※)ニ至テ飄●(※風に韋)起リ」、長者の家と家族は巻き上げられてけながぬまに沈んでしまった。残されたのは大神宮の御祓い一本だけ残され一家は亡絶した。これを里の人は悼んで御祓いを長者が祀っていた稲荷の祠に合祀した。その後しばらくして、この祠の前の毛長沼の岸に数尺の毛髪が漂ってどうしても流れていかない。なので、当時長者の家に処女がいたので、たぶんその娘の髪だろうということになり、拾い上げて箱におさめ、前の祠へ合祀して毛長三社大明神と号した。
その後月日がたっていつの頃か、別当の泉蔵院の者が毛長神社の神体とする毛髪を、鎌倉に持って行き、同地に毛長神社を祀ったという。

※咫尺弁・・・咫尺(しせき)を弁ぜず→ごく近い距離も見えない

【ふるさと埼玉県の民話と伝説】
・むかし毛長明神の裏にしょうゆ油屋があり、その家に三十三尋(約1.8m)の毛の長い娘がいた。土地の人々の難儀を救うために、今の毛長沼に投身して死んだ。この娘の髪の毛を神体として祀ったのが、毛長明神である。(飯田氏)

・出雲から東国にくだったスサノオノミコトに、妹の姫神がいた。ここまで来て悪者のために身ごもったので、それをはかなんで今の毛長沼に投身してしまった。
時を経て戦国の世のことである。太田道灌がこの地方の開拓をした時、長い毛に突き当たった。詮議の末この髪の毛がスサノオノミコトの妹姫のものと知れたので、これをふしぎとした道灌は、神体として神に祭った。これが毛長明神である。(石田氏)
ふるさと埼玉県の民話と伝説 (県別民話シリーズ (3))

【草加市】
毛長川の名前の由来
毛長沼(広報草加)

【舎人地域学習センター】
毛長川の起こり

3 件のコメント:

  1. 疫病で娘の家族が死に絶えてしまい、なおかつ破談になった娘が剃髪して遠くの尼寺に入るんで地元神社に髪を奉納した。なのでその神社が毛長神社と呼ばれるようになったとか?遺体がなくて髪だけ流れてきたというのも考えにくいですね。切った髪の毛を束ねて流したように思えるんですが。
    それにしても関東は湖沼にまつわる伝説が多いですね。江戸時代以前は葦原が広がり湖沼が点在し大河が流れる広大な湿原だったというので、そこで命を落とす人も多かったんでしょうね。

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  2. 東京~埼玉南東部、茨城、千葉のあたりは、ほんとうに湖沼が多かったようですね。
    新井宿近辺にも、昔は沼や池があったんですよね。新井宿の姥ガ池とか、赤山の山王沼とか。
    沼地というのは、特に泥々のぬかるんだ沼地だと、沈んでも浮かばず・・・なんてこともありそうです。特に子供なんて危なそうですよね。事故や人死、あるいは行方不明(神隠し)なんかも多かったんでしょうね。

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  3. 妻と二人で、行ったり来たりで奥の細道を歩いているものです。現在、山形新庄
    あたりを歩いています。二年ほど前だと思いますが、竹ノ塚あたりの4号線を
    歩いていた時、横断歩道の向こうから渡ろうとしている髪の毛の長い女の人
    (そう見えました)が、いました。前かがみの中腰で前に長い髪の毛をたらし、
    少し不気味な感じでまるで貞子のようだと妻と話して立ち去ろうとしました。
    少し歩き、気になって振り返ると、そのままで渡る気配がありません。
    その時の印象は長い髪の毛としていまだに焼き付いています。1カ月程前に
    その場所に程近く、毛長川があり、毛長神社があることを知り驚きました。
    振り向いた時の印象として、他の人がまるで無視していたような気がして、
    まるで自分たちだけが見えているかのような錯覚を覚えました。
    諸説あるようですが、無くなったご神体の幽霊だったのでしょうか?

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