2014年2月12日水曜日

征伐する側の事情、される側の事情。

ウィル・スミスが主演する映画に、「アイ・アム・レジェンド」という作品がある。

大筋のストーリー( ※注意!!ネタバレあり! )としては、



「2009年にガンの治療薬が開発された。治療薬は1万9人のガン患者に試験投与され、全員が助かったかに見えた。だが、試験投与された1万9人のうち5,000人から狂犬病のような症状が出始め、治療薬のウィルスが人間を死に至らしめる危険なウィルスであるK.V(クルピン・ウィルス)に突然変異していることがわかる。
K.Vの致死率は94%、6%は免疫を持ち生き延びる事が出来たが、5%は、全身の体毛と太陽光(紫外線)への耐性を失い、凶暴化して常人を遥かに上回る身体能力を得て、他の人間を襲って捕食する“ダーク・シーカー”に変貌してしまった。(ウィキあらすじ導入部より、一部修正)」

このウイルスは空気感染により広まり、多くの人は死んでしまうか、ダーク・シーカーへと変わってしまう。

ダーク・シーカーの見た目は、まるで吸血鬼とアンデッド(ゾンビ)をかけあわせたような外見で、元々は人間であるにも関わらず、意思疎通が難しいように見える。

無人の廃墟となってしまったニューヨークで生き残ったウィルスミス演じる主人公の医師は、ダークシーカーを生け捕りにしては、治療のための血清づくりの実験を繰り返していた。血清ができれば、ウイルスに感染しても助かるかもしれない。ダークシーカーも、元の人間に戻れるかもしれない。そして、人類は救われるかもしれない。
そんな主人公の医師に、ダーク・シーカーの群れは執拗に攻撃を仕掛ける。


 ダーク・シーカーは常人をはるかに超える身体能力を持つものの、太陽の光を嫌うので、主人公は上手に危機をかわしつつ、誰も生き残りがいないかもしれない世界で、孤独に、人類を救う戦いを続ける。


そんな彼は最終的に、奇跡的に生き残っていた親子と出会い、そしてダークシーカーを人間に戻せる血清テストに成功するのだが、襲撃してきたダーク・シーカー達に襲われ、血清を親子に託し、ダークシーかを道連れに自爆して死んでしまう。
その後、親子はその血清を手に人類の生き残りのコミュニティに無事、たどり着く。


以上が映画のストーリーで、つまり彼は世界を救ったレジェンド(伝説)の人となるのだが・・・。


このストーリーは映画館で上映されたもので、実はもう1つのエンディング、アナザーエンディングがあるという。


私の知る限り、この映画は2回、テレビでも放映されていた。
しかい、いずれもエンディングは上記のとおりであった。

アナザーエンディングはDVDに収録されているという。


このもう1つのエンディングを見ると、まるで結末と作品から受ける印象が変わってくる。
というよりも、これまで見ていた世界観が変わるというか、パラダイムがシフトするというか、まるっきり別の印象になってしまう。


どういう内容なのか、簡単に説明すると・・・。

ダーク・シーカーが襲ってきた理由は、主人公の医師が、群れのリーダーの恋人を生け捕りにしたため。
恋人を取り返すために、執拗に、猛烈に、なりふり構わず攻撃を仕掛けてきていた。
その事に気がついた医師は、治りかけていた(人間に戻りかけていた)恋人に、ダーク・シーカーに戻るウイルスを投与し、群れのボスに返す。


どういう事なのか?

おそらく、ダークシーカーたちはダークシーカーとして、すでに人間とは別の者として生きて生活をしている。
その彼らからしたら、人間の方が怪物なのであり、人間である主人公の医師は、自分たちを襲い、拉致し、実験道具にし、化物になる薬を投与するモンスターである。
その怪物から、愛する恋人を救出するために戦っていた、ということになる。

サルが人間を襲い、サルに戻そうとしたら、私だって抵抗する。
「おいおい、本当はお前、サルなんだぞ?」
と言われてもゴメンだ。


見る立ち位置が変われば、世界が変わる。


うろ覚えだが、確か「7つの習慣」だったと思うが、こんなエピソードが載っていた。

「電車の中で、父親と子供たちが乗ってきた。子供たちは車内で大騒ぎでうるさく、なのに、その父親はぼうっとしているだけで、注意しようともしない。
いい加減、あたまに来た私は彼にひと言いった。なぜ、子供たちを注意しないのか。
 すると、彼はハッとしたように顔をあげ、こう言った。
 すみません、実はあの子達の母親が今日死んでしまって、あの子達も戸惑っているんだと思います・・・実は私自身、何も考えられない状況で・・・。」
(※うろ覚えなので、細部が違うかもしれませんが、気がつき次第、修正します)

何事かある時には必ず原因というか、理由があるもので、普通の異なる言動があった時に、「何か事情があるのかな?」と推し量ることができるのは、世界中で多分(少なくとも現時点では)、人間にしかできないことだと思う。


それが、想像力というものなのかもしれない。


ところで今日、東京都台東区鳥越にある、鳥越神社に行ってきました。

このあたりには、日本武尊や、源氏が奥州に攻め入った事に由来する話がとても多い。


攻め入る方、攻められる方、色々な立場がある。

どっちが正しいということが勧善懲悪、すぐに判明するほど簡単なものでなく、もしかしたら私の祖先は「討伐される側」だったかもしれない。

例えば節分の豆まきに不可欠な鬼だけれど、彼らは「鬼は外」と言われ豆を投げつけられ、外へと追い払われるわけだけど、また彼らは桃太郎に征伐されるわけだけれど、鬼には鬼の言い分があるのかもしれないし。


そもそも、鬼はたくさんの財宝を持っていたと言うけれど、パンツ一丁のみすぼらしい格好で、とても都の貴族のように優美な生活を送っているようにも見えないわけで・・・。
もう身成だけで言えば、桃太郎の方が高めの衣装だと思うのですが。


神話から歴史まで、国譲りの神話、神武東征、日本武尊の東征、蝦夷の平定、平将門の乱の鎮圧、などなどこれまで色々あったわけだけど・・・。

もちろん、私のご先祖さまはガッチガチの、征伐する側であったかもしれず、単純に片方に感情移入できるわけでもないのだけれど、日本の歴史というのは、多分にハイブリッドな要素のあるコンガラガッタ歴史かもしれないと思うわけで・・・。

というような事を、たまには考えてみてもいいのかもしれないと思うわけです。

2 件のコメント:

  1. ほんのり梅酒2014年2月16日 17:05

    歴史は時の政権の都合の良いように書かれると言いますが、古事記、日本書紀に書かれる歴史ほど奇妙なものはないでしょうね。都合よく書いててもいいんですが、せめて実際にあったこととか実際にあった国などを書いていてくれれば古代史の謎はなくなっていたでしょうね。天皇家自らの由来すらわからなくしてしまったのは、それが目的だったのではないかなと思います。つまり政権確立時にえげつないことしてたとか。本当の古代史は長い戦乱の時代があったり邪馬台国が登場したり、かなりダイナミックだったのではないでしょうか?それらの記録が残されていないのがほんとに残念に思います。

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  2. 文字として記録される以前のことって、興味深いです。長い戦乱の時代、もちろんあったでしょうね。5世紀初頭には、少なくとも朝鮮半島まで行ってやりあっていたくらいですから。高句麗の碑文400年のところに、「倭の兵が新羅城に満ちていた」。それ以前に国内をある程度固める戦乱があったでしょうし、その中には英雄とかもいたんでしょうね。

    記紀神話も少なくとも2系統の神話(イザナギ・イザナミ系とムスヒ系)から出来ていると言いますから、土着の文化と外来の文化と、新旧勢力の衝突など、色々あったんだろうな~と。

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