2013年7月24日水曜日

貝塚と巨人・ダイダラボッチの伝説

東日本には貝塚が多い。
貝塚が多いということは、それだけ住んでいる人が多かったということだ。
ということは?
縄文時代やそれ以前に発展?していたのは、東日本なのかもしれない。

東京の品川区にある、モースの発掘した大森貝塚はあまりに有名だし、私の住んでいる川口市にだって、石神貝塚や新郷貝塚がある。

では、この貝塚というものを、古代の人々はどのように認識していたのだろうか?


茨城県の水戸市に、大串貝塚というところがある。
現在では「大串貝塚ふれあい公園」として整備され、そこには奈良の大仏よりデカイと言われる“ダイダラボウ像”がある。なんと高さ15mだそうだ。

ダイダラボウといえば、ダイダラボッチで有名な巨人の妖怪だが、なぜこの場所にダイダラボウの像があるのか?
その理由は、古代に残されたこんな記述にあるのかもしれない。

奈良時代初期に編纂された風土記の1つ、常陸国風土記。
この書に、古代人が記した「大串貝塚」についての記述が残されている。

「平津の駅家の西12里にあり、名を大櫛という。上古、人あり、躰は極めて長大く、身は丘壟の上に居ながら、手は海浜の蜃(大ハマグリ)を摎りぬ。其の食らいし貝、積聚りて岡と成りき、時の人、大挎の義を取り入れて、今は大櫛の岡と謂う。」

つまり巨人が食した貝(ハマグリ)が積もって岡となった、というわけだ。

巨人が、というあたりは置いておいて、この記述について森浩一氏は次のように語っている。

「考古学の発想と関心で縄文貝塚を観察し、記録に残している。世界的にも早い記録だ」
(日本史への挑戦)

埼玉の秩父あたりにも、ダイダラボッチの伝説はありますよね?
ダイダラボッチについての伝説が、割と東海より東に多く見られるのは、上記の古代人の見方に関連しているのかもしれない。

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