自分のご先祖様をたどる作業というのは、結構楽しかったりする。
人というのは、自分自身への関心がとても強い生き物なんですね。ご先祖様がどんな人であっても、今の私に関係ないと言えば、まったく関係ない。ご先祖様が偉いからと言って私が偉いわけではなく、ご先祖様がクズだったとして私が同じくクズであるとは限らない。
ですが、血のつながりはあるわけで、色々な時間の積み重ねがあって今の私があるわけです。
なので、それを辿っていくというのは、やはり興味深い。
家系図作りたがる人多いのもわかるわ~。
有名な家柄でもない限り、ご先祖様を辿る方法は限られてきます。
身近な方法として思い浮かぶのは、次の3つかな。
①位牌で名前を確認する(或いは、お寺の過去帳などで確認する)
②お墓の墓石で名前を確認する
③戸籍謄本、除籍謄本でできる限りさかのぼる
これらにプラスして、長生きしている長老クラスの親類を見つけて、話を聞いて見るというのが良いかと思う。
さて、私は私で、このブログでも書いた通り(100年前の親の名前)、曾爺さんまではさかのぼっていたので、そこから更に過去へと目を向けることになった。
すると、興味深いことがわかった。
私の家の、本家(宗家?)にあたるところには、かなり古いところまで、歴史をさかのぼることができる材料があった。家自体は、その存在を江戸以前までさかのぼって確認できる。
これは凄い、と思っていたのだが、よくよく調べてみると、家は続いているものの、血筋は途中で変わっているようだった。つまり、養子だ。そちらの家の方となると、そこまで古くさかのぼることができない。しかも、家が途絶えてしまっているようだった。
何とも複雑なことになっている。
日本のように、家を大事にして養子を入れることに抵抗のない文化は珍しい、と聞いた覚えがある。
よく、「俺の家のご先祖様は、ぶしだったんだぜ!」と嬉しそうに語る人がいるが、そこから一直線に自分へと血筋がつながっているかどうかはわからない。
また、戦国時代や明治時代など、家系図の偽造が流行ったことが何度かあるので、仮に古い家系図が残っていたとしても、無条件で信用できるかというと、判断の難しいところだと思う
思いのほか、血筋を辿るのは難しいものだな~と実感した。
このご先祖様をさかのぼる、というプロセスで、感じたことが2つある。
神社や道端にある石碑や供養塔などに、意外と昔の人の名前があるということ。寄進したり色々と事情があったのだろうけど、かなり古い時代の名前が残るという意味で、石碑というのは貴重な遺産だと思う。残念なことに昭和に入ると、これらのように石碑などに文字を刻むことが減る。私の子供や孫の時代には、100年前のご先祖様をさかのぼるのは、案外面倒かもしれない。
もう1つ。過去の文献資料などを読んでいて、何気ないところに自分のご先祖様の名前を発見すると、妙にうれしいというか、感動を覚えた。私が発見したのは神根村誌という手書きで書かれた村の資料で、そこにちょっとした役員として、ご先祖様の名前が書かれていた。別に名主でもなんでもない。今で言うと、町内会の運動会の役員のようなものだ。
そんなちょっとした出会いが、ちょっと嬉しかったりする。
かけた時間に対して大きなリターンはなかったけれど、それなりに楽しい作業だった。
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