先週の週末ののことで、私にとって実に数十年ぶりの鼻血だった。
本当に久しぶりの鼻血だが、不思議なものであの鼻の中を「すー」とか「つー」とか流れるような、いわゆる“鼻血の予感”は、すぐにそれだとわかった。
覚えているものなのだな。
そんなに何度も鼻血を出すタイプでもなかったのに。
ぶつけたわけでもなく、のぼせたわけでもなく、チョコレートを食べたわけでもない。
どこか特別な場所に行ったわけでもない(一応)。
出血の原因に思い当たる節はない。
偶然だが同日、私の親類も鼻血が出したらしい。
上根一族は鼻血に呪われたか?
鼻血にご利益のある神社って、あったっけ?鼻つながりで、天狗にゆかりのある神社(武蔵第六天とか)とかがいいかな?
折しも漫画「美味しんぼ」で鼻血描写が話題になっている昨今。
鼻血の話題は出しにくい。
あちらの議論は非常に熱い。議論が熱すぎて怖い。
臆病な私はおいそれと近づけない。下手なことを言ってしまうと、クラレッタよろしくつるし上げられてしまうのではないか。
批判する側もされる側も、互いが正義感を背負っているのだから、コトは非常に複雑だと思う。
双方それぞれが正しい、困っている人を救いたいと思っているはずで、しかしだからこそ、お互いの主張を受け入れられない。
そこには分かりやすい勧善懲悪はない。
考えてみれば多くの社会的な問題は、完全に一方が悪というケースは少ないのだと思う。
フィンランドメソッドの北川達夫さんだか進研ゼミの山田ズーニーさんだか忘れたが、以前読んだ本にこんな事が書かれていた。
森を削って道路をつくる計画があったとする。
反対派は、自然が壊される、環境が汚染される、本当に作る必要があるのか数字を出せ、と反対する。
推進派は、道路により経済が活性化する、雇用も進む、人の生活あっての自然保護ではないか、物流だけでなく救急搬送など社会的な意味もある、と応戦する。
どっちかを完全に論破しての解決なんてないのではないか。
このような対立というのは、捕鯨の問題も、戦争の問題も、靖国神社参拝の問題も、いずれも同じようなところがあるのかもしれない。
どちらかが100パーセント善で、もう片方が完全に悪。そんなケースは珍しい。
それは、社会や国際問題だけではない。
神話や昔話だってそうかもしれない。
記紀神話に綴られている神武東征や、ヤマトタケルの活躍、スサノオの話も、そう。
もうしかしたら、退治された彼ら・・・→ 長脛彦やクマソタケルやヤマタノオロチにだって・・・戦うだけの理由があったのかもしれない。彼らが背負う正義があったのかもしれない。
というか、当然あっただろう。
勝てば官軍で、勝者の記した書は割り引いて見る必要はある。
公的な文書である記紀の話だけにとどまらない。
桃太郎や一寸法師といった馴染みの昔話だって同じかもしれない。鬼には鬼の正義があったのかもしれない。てことは、実は以前も書いたことがある。
節分に参加できずに考える正義と倫理の問題
前々から考えている、というか気になっているのは、
「正しいことならば、相手を傷つけてもいいのか」
ということ。
例えば、あの鼻血描写の問題でも、ずいぶんヒートアップしたやり取りがあったようだ。ジャーナリストが原作者をリンチしょうと呼びかけたというような事があったらしい。
「美味しんぼの件は、見せしめにぴったり。(略)祭りは『血祭り』の方が興奮するし。嫌いな人民裁判に、私も乗ろう。風評被害撲滅の大義のため」
「私は漫画という文化に敬意を持つが、社会に意味のない漫画なら見せしめのためにリンチをして、吊るし上げても、影響はないだろう。だから心置きなくリンチして木に貼付けにしてやりましょう」
まったくの推測で書くが、きっとこのジャーナリストは普段はいい人なのだと思う。正義感にあつい真面目な人なんだろう。人が怒るというのは、大抵の場合、その人が大切にしているもの(人、価値観、考え方、物など)が傷つけられるからで、このジャーナリスト氏にとって守りたい人たちがいたのだろうと思う(で、きっとそれは、今回の件で批判する側とされる側の双方が守りたいと思うものに、実は大きな違いはないんじゃないか・・・と思いたい)。
私もそうだが、自分が正しいと信じていることであると、相手を批判し、非難し、あるいは議論するにあたって、感情が先行して必要以上に攻撃的に、傷つける言動に出てしまうことがある。正義感によって失われる冷静さ。しかし、こうなってしまうと、場合によっては正義感は邪魔でしかない。
「正しいことならば、相手を傷つけてもいいのか」
悪は倒すか。懲らしめるか。
傷つけられて困っている人のために人を傷つけるのか。
これって、反戦主義者が暴力に訴えるような・・・いや、救急車が傷ついた人を急いで搬送するために次々と人を跳ねて進むようなものだ・・・いや違うか。
以前も書いたが、「ヤマアラシともぐらのジレンマ」という話がある。
<とても寒く厳しい冬。1匹のヤマアラシが、もぐらの家族を訪ねてこうお願いした。
「外にいたら死んでしまう。冬の間だけ一緒に洞穴の中にいさせてほしい」
もぐらの一家は、ヤマアラシの頼みを聞き入れました。けれども、その洞穴はとても狭いため、ヤマアラシが洞穴の中を動き回ると、その度にもぐらたちは針に引っ掻かれてしまう。
とうとう我慢できずに、もぐらたちはヤマアラシに洞穴から出て行ってくれるようにとお願いをする。
ところが、ヤマアラシはこのお願いを断り、こう言ったのです。
「ここにいるのが嫌なんだったら、君たちが出て行けばいいじゃないか。」>
普通に読めばヤマアラシにムカっとくる話だ。
よし。ヤマアラシさんをたたき出すか。
しかしこれは、倫理と道徳を考える思考実験だ。
ここで考えたいのは“どちらが正しいか”という問題ではない。もっと別の何かだ。
A + B =A&B ?
このまま一緒に暮らすのは無理だ。
もぐらさんが傷ついてしまう。
では・・・
A + B =AorB ?
どちらかが出て行くのか?
それしか解決策はないのか?
しかし今ここで求めたいのは新しいソリューションだ。
A + B =C
AでもBでもない、Cという新しいソリューション。そういった考えを導き出せるチカラが求められている気がする。
何が考えられるか。
何を考えることができるのか。
どちらが正しいのか間違っているのか、という正義の問題ではない。
久しぶりに鼻血を出したことで、タイミングがタイミングだっただけに、色々と考えすぎたようだ。やっぱりのぼせているのかもしれない。
鬼ヶ島には悪い鬼がいるらしい。
悪い鬼?じゃあ、いい鬼もいるのか?
それはわからない。
彼らの素性、生態などについては分からないことが多い。
しかし、聞くところによると人々を襲うらしい。
てことは、悪い奴だな。
よし。退治するか。
人々を襲う鬼を、俺が襲ってやる。
しかし、実査に見てみると、裸に虎のパンツ一丁なんて、実に質素じゃないか。
綺麗に着飾っている貴族様とは大違いだな。・・・(未完)
ところで最近流れているペプシの桃太郎のCMが斬新。
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