2014年2月19日水曜日

近所の古墳を探せ!

先祖を30世代遡れば、その数は1億人を優に超えると言われている。

今を生きる私たちはあまり意識しないが、私たちが今生活しているこの土地には、かつて誰かが生活していた。そして、私たちが日常何気なく歩いている何の変哲もない町内に、ひっそりと、古代の人々の痕跡が、今だに残っていることがある。

例えば、古墳。



古墳ってのは、意外に多い。
奈良とか京都とか、古代の歴史の中心舞台だけでなく、それこそ青森にだって、東京23区内にだってある。

現存しているものもあれば、とっくの昔に壊されて跡形もないケースも多い。

で、だ。

私の住む埼玉県川口市にも、古墳はもちろんある(あった)。

有名なのは高稲荷古墳という古墳で、全長75mもあったとされるが、現在では残されていない。
この高稲荷古墳は、その場所・形状などの情報が残っているので、まだいい方だと思う。

やっかいなのは、何の情報も残っていない古墳。
ただ、「この辺りに古墳があったらしい」という話しか伝わっていないケースだ。

私たちは知らず知らずのうちに、古代の権力者(もしかしたら呪術的要素が組み込まれていたり、或いはカミに近い存在だったかもしれない!)の眠るその上で、尻を掻いてテレビを見たり、脱糞したりしているかもしれない。

ゾッとするやら勿体無いやら。

で。

以下は、私の住む地元地域における、今は残されていない古墳を探す記録である。結論を先に言うと、ゴールにはまったくたどり着けていない。悪戦苦闘の記録である。


私が住んでいるのは埼玉県の川口市で、東京都の北区や足立区と接している。この市内、神根地区という場所に、今は残されていないが2つの古墳があったらしい。


1つは西新井宿という場所。もう1つは道合という場所。どちらも昔は村であり、現在は大字としての地名になっている。

私がこの2つの古墳について知ったのは、ちょうど地域の歴史に興味を持ち始めた頃だった。

市内の歴史について情報を得ようと、図書館で「川口歴史読本」という本を読んだ。といっても、熟読はせずに、目次を見て気になったところをつまみ食いする程度だ。

と、そこに市内の古墳の所在地が書かれていた。

「川口市域に現存している古墳、もしくは最近まで存在した古墳や、あるいは発見の古墳遺物によって、かつて存在したことが認められたものに、次の六ヶ所がある(埼玉県史より摘録)
・新郷地区・ 峯・瓢箪塚 前方後円墳
   ・ 同   赤井  円墳
   ・ 同   東本郷・見沼台 前方後円墳・直刀・曲玉・土師
   ・神根地区 道合 前方後円墳・直刀・曲玉・土師
   ・ 同   西新井宿 前方後円墳・直刀・曲玉・土師
   ・芝地区 芝・辻 鉄鏃・木盂・平盌


神根地区はまさに私の住んでいた場所なのだが、しかし古墳があったなんて聞いたこともなかったので、驚いた。

川口市史などを読んでみても、同じように古墳があったと書かれている。しかし、古墳があったという情報以外、ほとんど情報がない。

で、情報源とされていた埼玉県史を読んでようと県史を手にとってみたが・・・なんと、何も書かれていない。


どういうことだ?
本当に古墳なんてあったのか??


気になって仕方なかったので、図書館の司書さんや市の人やら方々で聞いて、ようやく目処がついた。

どうやら県史は県史でも旧県史(確か4~50年くらい前に出版されている)の方に書かれているという。

で、浦和にある文書館にまで行き、ようやく旧県史にたどり着けたのだった。


・・・が、旧県史に書かれていることは、市史などに書かれていることと大差なかった。というか、ほぼ同じ内容だった。

その後も悪戦苦闘が続き、ようやく行き着いたのが「古墳横穴 及同時代遺物発見 地名表」という資料で、明治33年に発行されたもの。編纂・発行は「東京帝國大學」だ。

それによると、
・道合 古墳 報告者・蒔田鎗次郎
・西新井宿 古墳 登載書・地学協會雑誌報
こちらで見られます。

とある。

道合の方は蒔田さんという方の報告で、西新井宿の方は専門誌??


で、私が辿れたのはここまでだった。

古墳について専門知識もなく、これ以上調べを進めるのは困難だ。
誰か調べられる人がいたら、ぜひ教えて欲しい。


そして、私は私なりに、アプローチ方法を変えることにした。
決してゴールにはたどり着けないかもしれないけれど、一歩近づく努力。
私なりの方法。説話や地形からアプローチするという方法を選んだ。

地域に残っている説話・伝承、さらには地形。そして、現在は場所についてわからなくなっているということから、その場所は開発されてしまった(だろう)痕跡のある地域、ということで目星をつける。


西新井宿・道合、それぞれについて、次のように推測し、いくつかの候補地をあげて検討する。


◆◇【西新井宿の古墳】◇◆

候補地

① 笹根の仙元祠跡

以前、神根地区の昔の地図を読んでいて、気がついたことがある。
浅間社の“浅間”について、書かれ方が2通りあるのだ。1つは、“浅間”。もう1つは、“仙元”。

で、この違いが気になったので、浅間神社の方に問い合せてみた(なんと迷惑な・・・)ところ、次のような回答をいただいた。


「仙元」とは、主に富士講が使用した呼称のようです。よって古い文献には「浅間」「仙元」2つの名称が出ているものと思われます。


必ずではないが、古墳はある意味での聖地であり、埋葬場所との認識もあったと思われ、且つ山のような形なので、後に祠が立てられることが多い。

埼玉の有名な古墳「稲荷山古墳」もそうだし、先に上げた川口市内の高稲荷も、稲荷とつくのはその辺りが関係しているのだろう。
また、形状から富士山信仰と結びついて、浅間社とされるケースも多いだろうことは推測できる。現に鳩ヶ谷の仙元社も、あそこは古墳跡だ。

ということで、明治の地図をもとに西新井宿の「仙元祠」を探してみると、笹根という場所(西新井宿内の小字)に仙元祠があったことがわかった。

現在は社はなく、跡のみとなっている。

しかし形状は綺麗な山のような形で、これは古墳を想像させる。

開発という点では、近くには大きな鉄塔があり、、また、目の前には1946年に設立された川口市立グリーンセンター(旧指導農場)という巨大な植物園がある。


② 駒が塚

西新井宿には、新編武蔵風土記稿という江戸時代の地誌や、口承などの説話で、「稚児桜」という話が残されている。

昔、稚児が落馬して、命を落とした。そのとき、馬を繋いだ場所が駒ヶ塚となった。稚児を悼んで植えられた桜が、稚児桜。乳母が悲しみ、身を投げたのが姥ガ池。

1800年代前半の時点で、駒ヶ塚は形ばかりの小さな塚となり、池もほとんど残っていない状況になっていた。
で、塚といえば盛土をされた場所を指す。であれば、古墳として可能性はあると思った。

昔の絵図などを見ると、駒ヶ塚は西新井宿村に入ってすぐの場所、反対側の東新井宿村よりも手前にあるように見える。

※日光道中絵図

これを手がかりに現在の場所を推測すると、現在その辺りにはバスの営業所があって、塚のようなものの痕跡は見当たらない。

しかし、バス営業所内のバスターミナル脇には江戸時代からのお地蔵さんが、そして近隣には庚申塔らしきものが残っている。

これを、何らかの痕跡と捉えるのは、無理があるだろうか?


③ 姥塚&姥が池

古墳が見晴らしのいい高台にあったと仮定すると、姥が池のあったあたりはまさに高台にあたる。
池はやがて埋められ畑になってしまったのだが、埋め立てた土というのが、仮に古墳の盛土だったとしたら?

まったくの想像になってしまうが、ありえなくは無いと思う。

立地的に、稚児桜があって、山のような場所があって、池&塚がある。


そして、先の「稚児桜」の説話は、現在では稚児は将軍様の子と言われることがあるがもちろんそんな訳はなく、1800年あたりで桜は枯れ池と塚が形ばかりになるほどに風化していることを考えると、もともとの話は相当歴史が古いとも考えられ、であるなら、説話の元になった故事があったと推測できなくもない。

姥ガ池があったとされる場所は、現在、首都高速道路が走っている。そして、山のような場所は削られて、現在では建物が立っているが、以前は公園だった。公園以前は畑だったと思う。

池の推定地は西高東低で、低い方の土地は今でもジュクジュクとした水気のある畑に見える。


◆◇【道合の古墳】◇◆

候補地

① 団地近くの兄弟塚

道合には大きな団地があるのだが、その近くにはかつて僧庵があり、尼さんがいたという話が残っている。
そして、僧庵からやや離れた場所に、大小2つの塚があったという。

これを二つ塚、あるいは別名兄弟塚という。

この兄弟塚には、武士の兄弟の説話が残っているのだが、その詳細ついては機会を改めるとして、団地からそう遠くはない場所に、この塚があったものと思われる。

二つ塚のあたりには桜の木が植えられ、明らかに周囲とは異なる雰囲気があったと伝えられている。塚と僧庵(墓もあったらしい)があったということから、昔からそういう場所(聖地、埋葬地)としての認識が人々の間にあったものと思われる。

例えば「日本の神々」には次のように書かれている(孫引き-「民俗神の系譜」)。



「小野はさらにモイドンのモリは、遺骸の上に土を盛り、あるいは供養のために土を盛り、その上に大きくなる木を植える民俗とつながっていて、土を盛ることに由来したが、中心が木の方に移って、モリという語が形成されてきたのではないか、と述べている。」
(※モリ→森→杜、鎮守の杜など)

僧庵と塚の近くには小さな池があり、この池を汚すと祟りがあると言われていたという。

この地は特殊な、或いは神聖な地としてみられていたのではないか?

そうとう昔に行われた巨大団地の開発、そしてすぐ側には外環道が走る。団地の高層化と外環道開通以前には、この台地の坂の上からはとても綺麗な富士山が見えた。見晴らしのいい場所である。


② 外環道近くの仙元祠

仙元祠が古墳と関係あるかもしれない、というのは、前述の通りである。
実は、先ほど①の団地の近くに、かつて仙元祠があったことが、やはり明治の地図からわかる。

が、現在、その場所と思われるところを外環道が通っているため、現地を歩いてみたものの仙元社らしき祠が見つからない。

外環道の脇に小さな稲荷社があるので、もしかしたらこれが元はそうなのかもしれない。
で、距離的な近さも考えると、ここは上記①の兄弟塚の候補地にも上げられると思う。

すぐ脇には外環道が、そして近くには浄水場がある。


③ 神根小学校周辺(富士塚跡、高木前遺跡等)

富士塚が、古墳と関係あるかもしれないというのは前述のとおりである。
神根小学校の近くに、富士塚の跡が残っている。

ここには富士塚は現存しておらず、ただ石碑によって富士塚のあったことが確認されるのみなのだが、小さな祠と石碑は今も残っている。

この富士塚跡の背景に神根小学校があり、ここは高台に位置している。
この場所は東と南に眺めのよい場所で、見晴らしがいい。

富士塚跡&神根小学校の前には東西に伸びる道があるが、昔の地図を見るとこの場所はやや北回りに迂回されていたようだ。

この場所も富士塚つながりで怪しいと睨んでいたのだが、実はここの富士塚の歴史はさほど古くはないようだ。富士塚の多くが江戸時代のものだが、しかしここは明治の終わり頃に分祀されたらしい。

しかし、「ほんのり梅酒さん」からの情報提供によれば最近でも神根小から土器が出土したというし、神根小周辺は高木前遺跡などもあるので、神根小学校~高木前遺跡あたりというのは可能性が高いのではないかと考えている。

●●●

以上が、現時点までの調べた記録。

実を言うと、他にも2ヶ所、怪しいと思っている場所があるのだが、色々と差し障りがありそうなので自粛することにした。

以前から調べているのだが、専門外の私にはハードルが高い問題で、なかなか核心には近づけない。考え違いや的はずれな推測などもあると思うが、お気づきの点があればぜひ指摘してほしい。

2 件のコメント:

  1. ほんのり梅酒2014年2月22日 7:49

    笹根の富士塚は確かに人工的ですね。御説のように富士塚として造ったのではなく以前からあったのかもしれませんね。地権者の許しを得れば掘ってみたい気がしますが。おこられるかな。国際航業のバスターミナル周辺は歩道拡幅でどんどん撤去されていますね。僕も焦ってきました。あそこの地蔵さん(花御堂地蔵)は写真に撮っておいたはずなのに探してもない!もうなくなっていたら記録がなくなってしまいますね。それにしてもよくここまで調べましたね。驚嘆!ここと存在証明はliveの郷土史資料としていずれ評価されると思います。ぜひこれからも頑張ってください。協力を惜しみません。笹根、道合、駒が塚など僕も知り合いに聞いてみます。稚児桜ですが、まちづくりの前会長さんの家が稚児桜園といって道中絵図のそこであろうところで植木屋さんをやっています。何か知っているかもしれませんね。今度総会で会うので聞いてみます。

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  2. 調べるの嫌がられることも、たまにありますけどね・・・。

    推測ですが、稚児桜のあった場所は、現在アパートになっているあたりじゃないかと考えています。西新井宿の町内会の、第一と第二の境界となっている旧道の南側(どっちが第一でどっちが第二かわかりませんが・・・)。

    古墳の場所については、専門家とかであれば専門誌などからすぐに場所が特定できるかもしれないんですけどね。ただ、少なくとも明治33年の時点で、過去に専門家の発掘がされているわけですから、代々の土地所有者の家であれば、「うちの土地のアソコは古墳だったらしい」って話が伝わってそうなんですけどね。既に完全に壊されてなくなってしまっているか、道路や施設が建てられているか、あるいは途中で地権者が変わっているか・・・または遺跡に対して興味関心がまったくないのか・・・。

    ところで、この稚児桜の話の面白いところはですね・・・。

    ・稚児桜のあった場所→桜の木→植木屋さん
    ・姥が池のあった場所→池→水→水道屋さん
    ・駒が塚のあった場所→馬→乗り物→バス

    現在に、ゆるーく繋がっているんですよ。不思議な縁ですよね。

    あのようなお地蔵さんは、花御堂地蔵と呼ばれるのですね。知りませんでした。私も以前に写真を撮りましたが、お地蔵さんまだあるかな?それと、ブログ本文の駒が塚のところにチラッと書いた庚申塔らしきもの(石仏とか庚申塔とかに疎いんです)は幸福荘の裏手あたりにあったのですが、あれも無事かな?
    御成道沿いには、他にも姥神様、石神の御岳塚など色々あるんですが、ちゃんと残るといいですね。

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